完全に思い付き。
幸福になる才能って話をすると、たいてい「足るを知ること」とか「手持ちのものを好きになること」みたいな話になる。これはこれで大事だと思うけれど、斉藤環は「幸運を自分にとって必然のもの(運命)として受け止めること」が幸福の才能だって話をしていて、個人的にはこれが一番しっくりきた。 ここからは私の勝手な解釈だけれど、こういう風な姿勢でいれば、何か幸運があったら、それを逃がさないでしっかりつかむ。身の丈にあわないような幸運や評価が降ってわいたとしたら、それから怖気づいたり逃げたりせずに、運命だと受け止めて、幸運にみあう自分になるべく自分を磨こうとする。「自分のブログがこんなに人気になったのは幸運だが、しかし運命でもある。このはてブ数にみあう自分になろう」と思って自分を磨くなら、いつか帳尻があって、立派になれるだろう。そんな感じで、どれだけ沢山のプラスをつかめるかが幸運へのカギなのかな、とか。
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20060301/1141182389
人が育ってポジションにつくのではなく、ポジションが人を育てるのだというシビアな現実がある
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20061230/1167474130
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20080111/1200020891
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20061208/1165539947
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20080302/1204438490
となると、不幸の才能はその逆だろう。「足るを知らない」とか「好きなものを所有しようとすること」に始まって、「不幸、思うようにならないこと、逆境や理不尽なんかを、自分では動かしがたい必然として過剰に受け取ってしまうこと」なのだと思う。 「ぼくは不景気の時代に生まれなかったのでもう駄目だ。バブル期にさえ生まれていればこんなことには」という感じで、己の不遇の原因を他者のせいにして、それを固定化させてしまうようなことをしていたら多分一生不幸だろうなと。 実際日本は世代間格差は強いし理不尽だと思うけれど、かといってそうやって「もうしょうがないんだ」といって、しかもそれを不幸の原因だと思ってたら、この先一生不幸だということになってこの先の人生に夢も希望もありゃしない。事実として世代間格差が厳しい、はいいとして、「俺の現状はすべてそれが原因でどうしようもない」と言い出したら人生詰んでしまう。そもそも、そういう姿勢だと、延々と身の回りの不幸ばかり拾い集めることになってしまう気がする。怖い。
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20060227/1141028008
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20070125/1169695957
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20091004/p1
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20080803/p1
人はだいたい幸福の才能と不幸の才能を両方もっていると思うけど、幸福の才能のばしたい。
才能というよりモードのようなものかもしれない。躁鬱ほど極端ではないにせよ。
幸福モード一辺倒だとそれはそれでどこかで躓いて大怪我しそうだし、
かといって、ずっと不幸モードだと、多分ほんとに生きてくのがつらすぎる。
自分の状態を意識して、うまいことモードを切り替えれるようにしたいなと。
少なくとも、どっちか片方のモードの自分が本当の自分で、
それ以外の自分は違う、とか固まってしまうとしんどそうだから、
モードの切り替えは意識すればできるし、その割合を増やすこともできるって考えておくと
少し気分が楽になるかもしれない。
「メイド諸君!」の最後のセリフがすごく印象的。
http://blog.goo.ne.jp/2bottles/e/37e54f50d3ba6f7a6c966a7b3a531886
ちなみに私は鳥取君のこと大嫌いです。