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「嫌われる勇気」02 人生のネタバレの拒否=エネルゲイア的な人生

この本で描かれているアドラー心理学は「人生はシンプルである(にできる)」「人は今この瞬間から幸せになれる」をスローガンにしています。

大枠としてはいったん重荷を下ろし、しがらみから自分を解放することをスタートとして、そうやってまず自分を楽にし、自分を幸せにしてからいろいろ積んでいく、という感じで、乱暴に言えば、言ってることは「人生がときめくかたづけの魔法」と似たような印象があります。

最近やたらと断捨離だのなんだのと、おそうじ系の本が多くなってきていますし、私も一度プロの掃除屋さんに仕事を頼んでみてその効果の絶大さを体験したこともあります。そういう流れでこの本に接してみるのもありかな、と。

まず、エネルゲイアって何ぞや

というわけで、今日は「エネルゲイア的」というお話。元ネタはアリストテレスの「形而上学」にある言葉だそうです。「デュナミス」という言葉と対比されます。FF11は関係ないんやで。

デュナミスがまだ完成の途上にある生成状態のものを指すのに対して、エネルゲイアは現実に存在するもの、そして生成の終局にあたる完成された状態を指します。具体的には、卵と鶏を例にとると、卵がデュナミス、鶏がエネルゲイア。あるいは、チューリップの球根がデュナミス、咲いた状態がエネルゲイア

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1251149637

この本においては、すべての瞬間を「エネルゲイア」的な状態としてみなす生き方をしなさい、という話が展開されます。



常に「いま、ここ」に生きよ =人生を物語化・計画(ネタバレ)することを拒否する

ただ、今から説明する「今、ここ」という感覚は、もちろん単に断捨離すれば実践可能ではないと感じます。日本語で言うと、「一所懸命」に…ならないかな。

われわれは「いま、ここ」にしかいきることができない。
われわれの生とは、刹那の中にしか存在しないのです。
計画的な人生など、それが必要か不必要かという以前に、そもそも不可能なのです。

あなたがどんな刹那をおくっていようと、たとえあなたを嫌う人がいようと、「他者に貢献するのだ」という導きの星さえ見失わなければ、迷うことはないしなにをしてもいい。嫌われる人には嫌われ、自由に生きて構わない。みずからの上空に他者貢献という星を掲げていれば、常に幸福とともにあり、仲間とともにある。そして刹那としての「いま、ここ」を真剣に踊り、真剣に生きましょう。過去も見ないし、未来も見ない。完結した刹那を、ダンスするようにして生きるのです。誰かと競争する必要もなく、目的地もいりません。踊っていれば、どこかにたどりつくでしょう。エネルゲイア的な人生とは、そういうことです

論語で言う「四十にして惑わず」の心境と似ているかもしれません。40になったらこういう考え方できるのかな。

しかし私はまだこの考え方がどうしても苦手です。この考え方を受け入れるには、

①「他者に貢献するのだ」という感覚、「仲間とともにある」という感覚を常にもっている
②嫌われる人には嫌われ、自由に生きて構わないという前向きな諦めをうけいれている
③競争することから降りても生きていくことができると信じられるようになる
④目的地や計画を基準とする考えにしばられる必要がないとかんがえるようになる

という点を満たす必要があります。

運命というか流れに身を任せ、今自分がいる今このときを全力で楽しむ、という生き方ができるかどうか。これって良い意味での「運命論」とか「インシュアラー」的な考え方が必要だとおもいます。

自分に関することは、自分の責任であり、自分でなんとかしなければ、とかんがえているとついつい、計画やら長期的戦略やら、そういったものにとらわれることになりますし、実際仕事をしていればそういう考え方から完全に遠ざかることは無理だと思う。



とりあえず、目的地を目指している途中の道のりを楽しめるようになることから

だから、私の場合、このくらいがちょうどいいかな、とおもってます。

家から一歩出た瞬間、それはすでに「旅」であり、目的地に向かう道中も
すべての瞬間が「旅」であるはずです。
なんらかの事情で目的地にたどり着けなかったとしても「旅」をしなかったことにはならない。

登山の場合も同じです。目的が登頂ではなく、登山そのものであれば、
結果として山頂にたどり着くかどうかはそれほど重要なことではなくなる。

私はやはり、山頂にたどり着くかどうかは大事だと思ってしまいます。とはいっても、山頂にたどり着かなければ無意味、という考え方をするのではなくて、どうせなにかやるんだったら、とりあえず過程にもちゃんと意味を持たせましょうよ、くらいですね。

まぁこういうとものすごくありきたりなんですが、実際実践できてるかというと微妙なんです。私は「新しいことに挑戦するとき」とかはうまくいくかどうかが気になりすぎてなかなか行動できないことが多いので、失敗してもそれには意味があるはずだと考えられれば、私の重い腰も少しは持ち上がりやすくなるのかな、と。



ほかにもいろいろ書いているんですが、まぁとりあえずこの辺りで。
次からは、上で書いた①~④のような姿勢を身に着けるためには、どういう考え方が必要になるのか、について遡っていきたいと思います。

次回は「承認欲求なんていらない」という話をする予定です。













以下は余談です。

高杉さん家のおべんとう

直線のようにみえる過去の生は、あなたが「変えない」という不断の決心を繰り返した結果、直線に映っているだけにすぎません。そして、これから先の人生は、まったくの白紙であり、進むべきレールが敷かれているわけではない。そこに物語はありません。

これは刹那主義や享楽主義ではありません。「いま、ここ」にスポットライトをあてるということは、「今できることを真剣かつ丁寧にやっていくこと」です。

これについては「ベース」というか「ホーム」を大事にするということだと思う。いつか失われていくもの、変わってしまわざるを得ないものを嘆くのではなく、今めのまえにあるものを、とにかく丁寧にこなしていく。それが日々の支えになる。そんな感覚を描いている作品として、私は最近「高杉さん家のおべんとう」って作品がめっちゃ好きです。

この作品、「自己実現に失敗した物語」を生きてる人が主人公で、成長至上主義、自己実現至上主義の人からしたらスタート時点で物語終わっちゃってるんですが、でも人生ってそういうものじゃないよね、という感じがよいです。 癒されるというより、彼らがちょっとずつ頑張って生きていく過程で、「癒えていく」姿を見て、こちらも毎日がんばろうって気になれます。
http://possession.hatenablog.com/entry/2013/12/15/231148


connecting the dot

洲崎綾さんの話を聞くと勇気づけられる。
http://blog.livedoor.jp/sylphwatch/archives/8088085.html
本当は会話の全文を引用したいくらいなのですが、とりあえず見てけれ、と。ようするにスティーブジョブズのアレと同じ話なんですがなぜか私にはこちらのほうがぐっとくる。

なりたいものや欲しいものが得られるから努力するが、それが得られないならやる気がでない、ということではなく、その都度その都度、「点」においてその時の自分を出し切って生きていれば、後から見るとそれがつながって物語に、自分の価値になるのだ、と。最初から戦略だ物語だというものを想定して、特定の目的以外は価値がない、目的を達成しないと自分に存在価値がない、と考えて生きるより良いのではないか、ということかなと思います。

少女ファイト」でもそういうのあった気がする。

関連用語

・Planned Happenstance
セレンディピティ
ポジティブ心理学
・嚢中の錐

などがたぶんこの考え方と関連してるはずです。