承認欲求という言葉ははてなではよく話題になりますが、この言葉についてこの本に書いてある内容をそのまんま紹介すると「承認欲求は要らない。むしろ有害」です。
どういうこと?って思った人がいると思うので説明していきます。
「逆に考えるんだ、承認されなくてもいいやと考えるんだ」
承認が得られないと苦しい。他者からの承認が得られなければ自信が持てない。はてしてその生は、健全だといえるのでしょうか。
たとえば、「神が見ているから善行を積む」とかんがえる。しかしそれは、「神など存在しないのだから、すべての悪行は許される」というニヒリズムと背中合わせの思想です。われわれは、たとえ神からの承認が得られなかったとしても、この生を生きていかねばなりません。むしろ神なき世界のニヒリズムを克服するためにこそ、他者からの承認を否定する必要があるのです。
このさきに続く言葉は
・他者の承認を求めると自分の信じる最善の道を選ぶことはできなくなる。 それでは「人生のタスク」に立ち向かうことができなくなる。それは人生の嘘であり、自由に生きることから遠ざかる。
・自由のためには、シンプルな生のためにはまず嫌われる勇気が必要である。 まず、他人の課題をすべて手放し、自由になりなさい。「人から好かれたい」という気持ち(傾向性)から自分を解き放ちなさい
となります。
アドラーは前2回で触れたように、人はそれぞれ人生のタスクに誠実に立ち向かうべきだと考えており、そのためには個人が「自由」であることが必要だという考えを持っています。「承認欲求」はその自由を阻害するものであり、これは否定しなければならない、と言っているのです。
ただ、こんなの読んで「うんわかった」と思えるかというとムリですよね。
他者に承認されようがされまいが、幸福を感じられるようになるためには何が必要か =「共同体感覚」です!
じゃあかわりに何を持てば、何を求めればよいのか。「他者に承認されたい」という欲求に抗ってまで求める価値のある物があるのか。そこでこの本では次のように書いています。
貢献感を得るための手段が「他者から承認されること」になってしまうと、結局は他者の望み通りの人生を歩まざるを得ません。承認欲求を通じてえられた貢献感には、自由がない。われわれは、自由を選びながら、なおかつ幸福を目指す存在なのです。もし本当に貢献感が持てているなら、他者からの承認は要らなくなります。わざわざ他者から認めてもらうまでもなく、「わたしは誰かの役に立っている」と実感できているのですから。つまり、承認欲求にとらわれている人は、いまだ共同体感覚を持てておらず、自己受容容や他者信頼、他者貢献ができていないのです。共同体感覚さえあれば、承認欲求は消えます。他者からの承認は要りません
つまり「共同体感覚」が鍵だと言ってるわけですね。共同体感覚さえあれば、自分の意思で他者貢献ができるようになって、貢献感を感じることができるので幸福だと。それは、他者から承認されない限り幸福を感じられないkとよりずっと自由で幸福だ、と。うわあなんとういかトートロジーのような感じがするんだけど大丈夫か?
じゃあ、「共同体感覚」とはなんぞや? = 周りの存在を仲間だと思える感覚のこと
次は当然「共同体感覚って何?」ポイントに成りますよね。いろいろ書いてあるのですが、すごく簡単にまとめると「周りの存在を敵だと思うか、仲間だと思うか」という感覚のことだと思います。
みなさん自分が属している共同体のイメージってありますよね。家庭だったり、友達関係だったり、会社だったり、学校だったり、社会全体だったり。意識の持ちようによって大小様々に持ちうると思うんですが、とにかく「自分が属している共同体」の人たちを信頼できるかどうか、仲間だと思えるかどうか、その人達のために何か貢献したいと思えるかどうか。ここがポイントだと言うわけです。
そうはいっても共同体が好きに成れるかどうかって運じゃね?といいたくなりますが、
アドラーさん曰く、
・人間には、自分が属する共同体を選べる。
・人間には、自分がどういう共同体に属していると脳内で思うかを選ぶことができる。
・人間には、自分が属していると思っている共同体をどう認識するかを選ぶことが出来る。
ということのようです。(余談2でちょっと文句言う)
そうやって、自分が属する共同体を、承認欲求のためではなく、自分の意思で選び、そこにいる人達、対人関係を仲間だと思う意思を持つことができたなら。承認欲求を与えてくれるからではなく、自らの意思で彼らのために貢献したいと思うことができたなら。その時、人は自分が「そこにいてもよい」という感覚を覚えることができる。「共同体感覚」を持つことが出来る、ということなんだそうです。
そして、真に共同体感覚(ここにいてもよいんだ)を得ることができれば、もはやちっぽけな自分を守る必要がなくなる。共同体は敵ではなく仲間だから。むしろ、共同体にとって良いことをすれば、自分にとっても良いことが回ってくる。そこでは、自己中心的な考え方にとらわれず、みんなのために自分ができることを考えられるようになる。…と、ここまで来たら、幸せスパイラルが廻るようになるでしょう。確かに承認欲求なんて小さなことを気にしなくても良くなるかもしれませんね。わーいわーい。
http://shikisha.hatenablog.com/entry/2014/06/23/171248
良き承認欲求とは「周りの人間を仲間と思いながら、他者に貢献しようとする感覚」であり、悪い承認欲求とは「周りの人間を敵だと思いながら、その人達から承認を得ようとする感覚」
どうしてここで貢献感が持てるのか?これは家族のことを「仲間」だとみなしているからです。そうでなければ、どうしたって、「なぜ私だけが?」「なぜみんな手伝ってくれないのか?」という発想になってしまいます。他者を「敵」だとみなしたまま行う貢献は、もしかすると「偽善」となるかもしれません。しかし、他者が「仲間」であるなら、いかなる貢献も偽善にはならないはずです。
日本語には「情けは人のためならず」という言葉がありますが、要するにこの言葉をちゃんと理解してるかどうかということですね。一応説明すると・・・
良い承認欲求は他者への信頼が前提にあります。ある意味すでに承認されている、という感覚を持っているということです。そのうえで、もっと相手にとって良いことをしてあげようと思えるなら、それは良い承認欲求ということになります。この本では、もはやそれは「貢献欲求」と呼ぶべきである、としていますね。キーワードは「共同体感覚」です。
一方、悪い承認欲求は、自分が全く承認されていない、という感覚が先にあり、周りが敵に見えているような状態のことです。この状態だと、まず周囲への敬意を欠いた言動をとったり、場合によっては挑発的・攻撃的な言動をとります。そうやって他人を打ち負かしたり、屈辱を与え、周囲から優位にたとうとする。キーワードは「競争意識」です。
たとえば、さんざんはてな村やはてな村長の悪口を言いながら、自分が誇るものははてなブックマーク数の獲得数である人であったり、ネットのユーザーをバカにしながら、自分のブログのPVを自慢してばかりいる人というのは、これは完全に駄目な承認欲求ということが出来るでしょう。そういう人に限って「承認欲求」は必要だと擁護していたりして、「たしかにそれなら承認欲求そのものがアカンのちゃうか」という気にもなってきます。
アドラーは否定していますが、私はいきなり「承認欲求」追求すること自体は否定しようと思いません。ですが、それを求めるのであれば、「承認を求めようとする相手をまず仲間だと思えるか、それとも敵だと思うか」を考えたほうがよいですね。承認欲求は、「仲間だと思える人達」がいるところで発揮すれば良いと思います。そうすれば、そのうち勝手に「貢献欲求」に変わっていくんじゃないでしょうか。
この後は「人生の調和」がテーマになっています。このあたりからは自分で読んだほうが面白いと思うので、ぜひ読んでみてください。
- 「逆に考えるんだ、承認されなくてもいいやと考えるんだ」
- 他者に承認されようがされまいが、幸福を感じられるようになるためには何が必要か =「共同体感覚」です!
- じゃあ、「共同体感覚」とはなんぞや? = 周りの存在を仲間だと思える感覚のこと
- 良き承認欲求とは「周りの人間を仲間と思いながら、他者に貢献しようとする感覚」であり、悪い承認欲求とは「周りの人間を敵だと思いながら、その人達から承認を得ようとする感覚」
- 余談1 「安直な優越性の追求」の否定について
- 余談2「すべての悩みは対人関係にある」と言い切るアドラー心理学の限界っぽいものを感じる件 → アドラー心理学の限界を補うべく、ロゴセラピーなどが誕生した。私はこちらのほうが好き