頭の上にミカンをのせる

「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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自分の憎悪やルサンチマンを肯定するために仮想敵を作る行為そのものが問題

徴兵制推進論者についてはまずこの記事を読むといいと思います

徴兵制推進論と「想像の共同体」化する「世代」 | Kousyoublogはてなブックマーク - 徴兵制推進論と「想像の共同体」化する「世代」 | Kousyoublog

「世間」「社会」という枠組みの中で緩やかに繋がりあった旧来の意味での「世代」ではなく、
その境界線が憎悪でもって引かれることで成立する「世代」が登場している

何が言いたいかというと、確かに徴兵制推進論者はバカに見えるかもしれないけれど、それに対して煽り返して満足するだけになってしまうと、同じ憎悪の構造にとらわれていることになるので、そこから抜け出せるようになりましょうということです。


問題なのは、「憎悪」「被害者意識」によって集団が形成されていくこと

基本的に、

徴兵制推進論者
生活保護叩き
ブラック企業が最近までむしろ擁護されていたこと
老害VS若者という対立構図を前提としたチープな社会理解

などなど。すべて背景に同じ構造があると思われます。多分探せばいくらでも出てくるでしょう。

対外における「ナショナリズム」が狭まって、国内における「ジェネレーショナリズム」とでも言うべきものが強調され、さらに、小さい領域で見ていくと同世代におけるさまざまな格差も出てくる。そして、その線引にいちいち「憎悪」や「ルサンチマン」を持ちだしてしまうようになってしまうということです。

*1

で、片方が憎悪を持って相手を見つめると、その憎悪を受けた相手もまたそれ自体をアイデンティティとして認識し、相手に憎悪を投げ返すようになるわけです。これが「集団」になると歯止めがききにくくなります。

憎悪を浴びることで形作られた社会集団は、その憎悪を向ける対象を新たに想像することでアイデンティティを保とうとするのかもしれないが、ともかく既得権益層などの社会的上層であるとか、マージナルな層などにある人々を新たに安寧を脅かす想像上の外部集団として創出することは歴史上少なくない。特に高齢者層があたかも諸悪の根源であるかのようなイメージは少なからず蔓延しているが、「若者」を憎む人々と同じように「老害」という想像上の集団に対する不信がその根源にあるのだろう。


そこらへんの恐怖を描いた作品としては「SWAN SONG」オススメ。


徴兵制推進論論も、それをただ煽り返す行為も、憎悪に支配されている限りは奴隷道徳になってしまう

ルサンチマンをもつ人間にとっては、否定そのものが価値を生む行為だからだ。自己肯定ではなく他者否定
ルサンチマンの人間は「悪人」を思い描き、それと対比して弱い自分を「善人」と見なす。

ルサンチマンの人間は自分固有の価値基準をもっていない。ルサンチマンの人間が価値の基準をみずからの外部に求める。

奴隷道徳は初めからして〈外のもの〉・〈他のもの〉・〈自己ならぬもの〉にたいし否と言う。つまりこの否定こそが、それの創造的行為なのだ。価値を定める眼差しのこの逆転―自己自身に立ち戻るのでなしに外へと向かうこの必然的な方向

彼はまず〈悪い敵〉、つまり〈悪人〉を心に思い描く。しかもこれを基本概念となし、さてそこからしてさらにそれの模像かつ対照像として〈善人〉なるものを考えだす、―これこそが彼自身というわけだ!・・・

相手を理解しないゆえに、漠然とした集団としてしか認識できず、それに対して不信あるいは憎悪をぶつけることで、自己を肯定化するという発想は上記事例のすべてに共通しています。 私はとにかく「ハラスメント」が嫌いなので、この手の事案ほんとになんとかしたい。



憎悪を煽る人に利用されるのは悔しいから嫌だ

こういうことをすると、ほんと「1984」の世界は近いなと思います。原作読んでみて思いましたが、ビッグブラザーは「憎悪」を管理することを大きな権力の基盤としてるんですよね。

自分と違う他者を「憎悪」を持って眺めることは、一件その他者に打ち克つ手段であるかのように思われるかもしれませんが、歴史における民族紛争の悲劇をみればわかるように、三国志における「離間の計」の効果の絶大さをみればわかるように、お互いが憎悪することにとって得するのは、その憎悪をしかけ、管理する第三者なんですよね。

そういう状況において、片方が憎悪に操られたまま「地に足のついてない知識でハイ論破!ごっこ」をやったところで阿呆としかいいようがないし、その阿呆の気分が一時的にスカッとするだけで現実において何の役にもタチませんよね。むしろそういう中途半端なガス抜きによって、お互いの溝は深まり、状況は泥沼化するだけです。阿呆なことはやめましょう。


「どっちもどっち」をスタートラインにして一旦お互い立ち止まり、その上で「自分はどうしたいか」を考えて、最終的に憎悪を克服したい

まずは「どっちもどっち」であることをスタートラインにする。言い方が気に入らないのであれば、両者の対立は「構造的」なものであることを認識する。その構成員たちが悪だとか、自分たちが正義だとかいう思いあがりをまずやめる。どちらも問題を抱えており、どちらもが歩み寄って、コミュニケーションを成立させることによってのみ少しずつ両者のわだかまりは解消される。

どちらかがどちらかを駆逐して勝利を得る、みたいな「進撃の巨人」のエレンみたいな発想は通用しない。そういう野蛮な解決策は、昔はよくあったけど、現代においては不可能なのだから。*2


できれば、まずどっちもどっちという事を自覚して立ち止まりたい。 集団の中で「個」としてどうしたいか自分で考える余裕を持ちたい。そして、できることなら協力しあって血を流さずにわかりあえるようになりたい。 実際はいろいろ問題あったけれどなんだかんだいって日本の歴史における「明治維新」は結構誇るべき成果だと思うんですよ。

その「お互い歩み寄る・連帯する」が今のところできないから人類には争いや悲劇が耐えないのだということを直視しつつ、それでも人はお互いを憎み恐怖し合いながらも、相手を殺したくないと思う気持ちもあるし、殺しあっていた相手とも理解しあうことができるという話。

*1:例の人は、自分以外の他者に「憎悪」をむき出しにして人気を得よう=オルグとしてはいけないということがわかってない限りなにをやっても同じ所をグルグル回り続けるでしょう。彼はフリーゲームなど、自分が好きなモノについて語るほうに重点置いたほうがいいと思うんだけどな―

*2:いやもしかしたら、エレンも成長してとてつもないところに到達してくれるかもしれないけれども。なんせ、あの作品はいやというほどエレンをいじめ抜いて成長させようとしてるからな―。