頭の上にミカンをのせる

「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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つまらなく感じるのは、自分が全く面白いものを探す努力をしてなかったから

「もう本当に、面倒くさくて長くて、それだからこそ面白い主張や議論というのはネットのオープンな場所では見られなくなってきたのだろうか」とか上から目線で嘆いてみたい気分になったけど、気のせいだった。

あきらめる必要は全然なくて、そういうのは自分で探せばいくらでもある。あくまではてなホッテントリにそういう記事が出なくなっただけだ。


自分の興味ある世界のコアな部分が、探さなくても向こうからやってきてくれた今までがおかしかっただけ。そんな恵まれた環境に甘えてきただけなのに文句を言ってちゃアカン。自分で面白い人を探して、面白いものを探して、面白いことを発信できるようになるか、それができないなら「お前、はてな向いてねーわー」を受け入れて沈黙すべき。



はてなーの皆さんの同人活動などを追いかけていて、そんなことを思いました。


嘆きたくなった原因は「いつも」のアレ

はてなブックマーク - マッチョなキャリアウーマンを増やすのが女性の社会進出じゃないよね~ - 言いたくないけど、僕が青二才です

ええええ・・・。記事内容はいつもの青二才クオリティというか 

何が言いたいかというと、「女性の社会進出」「男女平等参画」なるものが進んでも、それが「機会の平等」以上を追求すべきじゃないということ

以上のことは何も言ってなくて、間違ってもないけどすげえ当たり前すぎて「おう、そうだな」としか言いようがない。で、細部にはツッコミどころ満載である。*1
でもそれはいつものことだ。青二才の記事のクオリティはいつもと同じで何も変わってない。ずっと見てきた者として何も違和感はない。だがはてブの反応が、やばい。この反応どうなってるん。



アファーマティブ・アクション」って言葉はもう死語なのん・・・。雇用機会均等法以来の積み重ねられてきた議論の蓄積がみじんも見られないってどういうことなん。彼らはどこに消えてしまったの・・・。

こないだの承認欲求の話もそうなんだけど、なんか最近青二才さんのブログおよび、それに対する反応を見てると「一度終わったはずの議論が死に絶えた後、あまり望ましくない話者(端的に言えば全くコミットするつもりが感じられない愉快犯)によってものすごい劣化されて再生されてる感」がする。正直ものすごい抵抗感がある。青二才さんが悪いわけじゃないし読者が悪いわけでもないんだけど、さすがにこれはつらい。

傍観者の「善意」について (5ページ目):日経ビジネスオンライン

当事者であるということは、「逃げられない立場」にあるということで、その意味で、彼らは、議論の行方や、理念や正義の感情や政治的な信条や立場とは関係なく、とにかくその日をやりくりしなければならないからだ。これに対して、逃げる気になればいつでも逃げられる外部の人間は、むしろ、明確な理念を必要としている。でないと、被災地に関与する動機が維持できないからだ。われわれ傍観者が、被災地の人間を支援するためには、善意だけでは足りない。正義の感情や、政治的な信条や、いずれにせよ、そうした強い信念が不可欠になる。そうでないと、身がもたない。かくして、被災地で暮らす「現実派」の当事者と、それを支援する「理念的」な支援者の間には、微妙なすきま風が吹くことになる。

最近のネットの議論では、何かにコミットしている姿勢を示しにくい

繰り返し言うけど青二才さんは何も悪くない。

これは青二才さんの問題ではなく同様の話題について青二才さん以外大声で主張する人がいない、という問題なのだ。そういった問題にコミットしていた人たちは、もはやはてなには登場しなくなってしまった。もうネットの議論に期待してないのだろう。今でも継続されているlessorさんのような人や、シノドスのような取り組みはもはや希少になってしまったし、そういう人たちは寡作であり、その人だけで議論の場を継続させる力はない。

そういう議論を受け止め、盛り上げていく人がいなければいけないのだが、もうそういう現象はほとんど見られなくなった。STAP細胞だとか野々村議員みたいなつまらない議論のほうが長持ちする。

大きな決断に対しては「賛成」とは言いにくいからだ。というよりも、山田は、そういうことに賛成する人間であるというふうに周囲の人に思われなくないのだ。でも、実のところ、彼は、それらのイシューには、まったく関心が無い。というよりも、関心を抱いたところで、どうして良いのやらまるで判断ができない。ただ、どの問題がどっちに転がるのであれ、自分がその決断に参加したカタチを取ることには、ためらいがある。できれば自分以外の人間の意思で事態が動いたという経緯で、物事が決定してくれるとありがたい、と、典型的な日本人である山田はそんなふうに考えている。

決断力のある男やリーダーシップを持った上司が歓迎されるのは、つまるところ、多くの日本人が、内心の深いところで、決断を回避したいと願っているからなのである。

私の思うに、良心的決断忌避者の数と、善意のパターナリズムを発揮する人間のパワーバランスが崩れない限り、この国はそうそうひどいことにはならない。押しつけがましい善意の決断嗜好を、大多数の決断忌避者たちが薄め、社会への影響を減殺するからだ。警戒すべきは誰か。恐怖を煽る者と、排除の論理を言いつのる者。あとは白い顔をしたサギだ。

結果として、突っ込んだ話はオープンな場では敬遠され。オープンな場には青二才的なものだけが残る。とにかく入り口付近の薄くて異論の出にくい共有しやすい部分をもり立てて、twitter1つか2つで消費できるような内容を長文で薄く希釈してそれっぽく盛りつけた記事の書き手がホッテントリ連発するようでは批判機能なんて邪魔なだけであって、歓迎されるわけがない。
しかし批判が歓迎されない空間に議論なんてあるものか。



レッテルとしてのフクシマ (3ページ目):日経ビジネスオンライン

特定の事件について、二つの対立する勢力が、互いに相容れない見解をぶつけあっている場合、議論は、空洞化する。歩み寄る姿勢を持たない論争は、平行線どころか、より対立を深める方向で推移するものなのだ。特に、対立する論敵同士が、事件を政治的に利用する目的で自説を展開した場合、両者の議論は、両極端に向かってむしろ分裂して行く。論敵がフェアな相手でないと判断した論者は、自分だけがフェアな態度でいると、論争に負けてしまうと考えて、結果、自らもアンフェアな態度で議論に臨むようになる。かくしてディベートは荒れる。

時間がたつと、真相は事件の発生直後よりさらにわかりにくくなっている。 わかりにくいだけではない。一般の人間にとっては、その事件に関わること自体がリスクになる。すなわち、「えんがちょ」だ。触れるだけで汚れが感染する、汚染源みたいな話題。テーブルの両側に残っているのは狂信者のみ。一般人は一瞥を送ろうとさえしない。

用語について説明する前に、他人の言説を「レッテル貼り」と決めつける態度は、それ自体が「レッテル貼り」であるという指摘と、「思考停止ワード」という言葉が、実は最も典型的な「思考停止ワード」である旨について、一応の反論をしておく。おっしゃる通り「レッテル」は「レッテル」の一種だし、「思考停止ワード」は「思考停止ワード」そのものだ。が、だからこそ、われわれは、「自分たちがレッテルを貼り合っている」ことを自覚すべきなのだ。ともあれ、自分たちが使っている「レッテル」と「思考停止ワード」を列挙して、互いにそれを含みおいた上で議論をすれば、論争の不毛さはずっと軽減される。そう考えて、せめてレッテルを貼る時には、そのレッテルに対して覚醒していようではないか。

いつぞやの、私なんかではついて行くのが精一杯で、
読んでるだけで勉強になるーって感じの空気はどこいったんや・・・。

って話がたぶん3年くらい前にあったし、あずまんは私が知る限りでも2008年くらいからずっと言ってる。ハックルさんも2012年にはいなくなってしまった。でも、今まで受け入れるのを拒否し続けてきたけどこれはもう無理や。



いい加減子供じみた優越コンプレックスを捨てて、面白いことを自分で探して自分で近づいて、自分で発信できるようにならないと

と思いつつ、変わったのはホッテントリだけ。数字大好き青二才はそれに適応しただけ。何も間違ってない。

そして私は、ずっとそこにしがみついて、向こうが面白いのをくれるのを口を開けて待ってるだけで、自分で面白いものを発掘しようとしなかった。面白くない者や、自分でもわかるものに上から目線で文句を言うばかり。

完全な優越コンプレックスだ。

劣等コンプレックスが肥大化していくと、今度は優越感を感じたために優越コンプレックスを形成していきます。コンプレックスはまるで生き物化のように同類の感情を吸収し肥大化する性質がありますので、劣等コンプレックスを放置すると劣等コンプレックスがどんどん同類の感情を生み出そうとして結果悪化していきます。優越コンプレックスが酷くなると自分がすごいと思い込んだり他者を見下したりするようになり神経症行動をするようになる大きな原因の一つになります。劣等でもなく優越でもないありのままの自分を認めることができないことで、どちらかに偏るのです。

http://bright-ms.net/?p=1546

そんな私が、青二才の記事に文句を言う資格などない。


毎日がつまらないのは 自分がつまらないとその心閉ざしているから

*1:「性差を考慮せず機会平等で良いとか正気か?」とか「社会的規範が男有利なのに、機会平等にした結果が現状なのに何言ってんの?」とかそういう議論はもう25年前から続いてるよとか、「フェミ憎しだからといって議論無効化してんじゃねーよ」とか、「サンドバーグさんの提言は無視かい」とか、「エリート層とそれ以外で議論が区別されてないとかあり得ないだろ」とか