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「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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「悪意」よりもむしろ「善意」について疑うべき

べきかもしれない。

善意 - Wikipedia

法律用語としての善意は、ある事実について知らないという意味で用いられる(例:善意の第三者)。対義語の悪意は、ある事実について知っているということを示す。どちらの場合もそこに道徳的な善悪の判断を含むものではなく、ただ事実を示す言葉として使われる民法の条文において用いられる「善意」は「善意無過失」の意味であると解されることもある。

「不安なら、聞けばよかった」だけなのに…

先日、役所にとある手続きに行ってきたのだけれど、窓口の人が新人さんっぽい人だった。丁寧に対応しようという意欲が感じられる人で、悪い印象は持たなかったのだけれど、新人さんということもあり、ちょっと自信がなさそうだった。

で、自信がなさそうな割に、全然横の先輩とかに質問や確認をしないので、だんだん不安になってきて、「本当にこうこうこういうことで大丈夫ですか?」って確認したんだけれど、しばらく唸った後で「大丈夫です」って返されたので、その場ではそれ以上ツッコマなかった。(聞きにくい関係なのかな。他の先輩方も忙しそうだったから新人さんが遠慮しちゃったのかもしれないけど…)


仕事や買い物だったら絶対に「他の先輩に確認してもらっていいですか」って詰めてたはずなんだけど、お金かからないし、新人さんだし、とよくわからない理由で遠慮してしまい、そのまま帰って来てしまった。


その結果として、今になってやっぱり手続きがちゃんと完了していなかったことに気づき、来週またどこかで時間を作って役所にいかなければいけない。仕事じゃないけど、金はかかってないけど、余分に時間を取られてしまったことになる。役所としても、一度で終わった手続きでまた相手しないといけないので手間がかかってしまうだろう。 今回は、私は自分のミスだから絶対に怒らないようにしようと思ってるけど、でもやっぱりちょっとイラッとしてしまった。人によってはその時ちゃんと確認しなかったのに、後で怒るかもしれない。



というわけで結論としてはすごいシンプルで

「不安に思うことがあったら遠慮せずに聞くべき」

以上。


「悪意」よりもむしろ「善意」のほうが確認重要。

遠慮してしまった理由を考えると、次からは「相手をどのような点において信頼して、どのような点について疑うか」はちゃんと決めておくべきかな、と思う。

それで、掲題の通り「悪意を疑うべきではないけど、善意は疑うべき」ということにしよう。つまり故意は疑わないけど、無知である可能性は考慮する、と。

故意を疑い出すときりがないし、真意とかそういうのを考えるのは疲れる。そういうのは関係なく、ちゃんと確認だけはするし、してもらおう、と。そのほうがお互いにめんどくさくないしね。

というわけで、今回は、自分が新人さんについて「悪い人じゃないし、大丈夫だろう」という全く根拠の無いことを考えていたのが失敗でした。悪意は疑うべきじゃないけれど、善意(その人がまだよくわかってない可能性)も疑うべきだった

「悪意」を気にしないなら、なおさら聞いても問題はなかったはずだ。



善意の時こそ「無知」に警戒しなければいけない

もともと善意って言葉には警戒心を持ってます。「いわゆる善意」を自ら主張して自己正当化にあてるような人が苦手です。偽善を嫌うほど幼稚ではないけれど、善意や無知は、行動を正当化する根拠にはならないだろうというスタンスです。


もちろん悪意が好きなわけじゃないけれど、悪意はどちらにせよ警戒しますから無知かどうかはそれほど気にしなくても良い。どちらにせよそれほど対処に差はありません。無知であればむしろ対処しやすいです。


善意は対処が難しい。それが無知からくるものなのか、ちゃんと知った上でそれでも善感情をもってやってくれていることなのかがわかりにくい。なら、善意の時こそ無知かどうかを警戒しないといけないのだと思う。


抽象的な言い方になりますが、たいていの善意は「遠く」から投げかけられるものが多く、そういうものは「無知」とか「非当事者」みたいな言葉で表現できる場合が少なくない、と。そういうのに振り回されるとちょっと危ない気がする。