「ユリ裁判」の「二択になってねーよ」的な問いかけの汎用性の高さは今後も活かしていきたいと思いました。この記事は以上です。
余談1
『CLANNAD』対『2001年宇宙の旅』。岡崎汐はスター・チャイルドの夢を見るか。:いまどきエンタメ解剖教室:海燕のチャンネル(海燕) - ニコニコチャンネル:エンタメ
読んだ。すごく長々と書いてあるけど書き手の人が言いたいのは
『AIR』にしろ、『CLANNAD』にしろ、遥かな超越世界へたどり着くまでの物語です。それは、特定の教義に則っているということではなく、より正しい意味で宗教的な物語ということができるでしょう。この世の彼岸により気高いものを思う「プラトンの理想」を胸に抱くすべての人々に、その物語は訴えかけるのです。遠く、もっと遠く、高く、もっと高く、と。
ということらしい。
麻枝作品はいつも決して描けない「超越世界」のことを描こうとしているために難解なしろものとなっていると考えられるわけです。
ただ、ぼくは未プレイですが、麻枝さんには一切「超越世界」的なものが登場しない『智代アフター』という作品もあるようです。あれは何なのか。未プレイなのでなんともいえないのですが、おそらく「超越世界」を切り離し、現実世界の苦しみをひたすらに描いた作品といえるのではないでしょうか。「苦界」である現実世界はこんなにも苦しみに満ちているということを描こうとしているのかな、と。いずれにしろ、麻枝作品はこのように「超越世界」を描きながら、「人間の希望」を歌い上げています。どういうことか。つまり、人間には汐のような「超越世界」のコントローラー(神? 天使?)に駆け上がる道もあれば、そのような超越存在の介入を許すことなく、一身で希望を探ることもできる。そういうことでしょう。
なるほどなー。
でもな、うーん。なんだかな。なんだかな。間違ってはいないんだと思う。
ただ、そういう切り取り方をするのか? なんというか、綺麗過ぎて全然しっくりこない……。
麻枝作品が希望を描く物語って受け取り方は、「リトルバスターズ!」以外でしたこと無いよ。
そういう観点で見て、そういう物を期待してしまうなら、「AngelBeats!」ってクソすぎる作品じゃないですか。
もっとこうなんというか、苦くて飲み込めないなにもの、解決不可能なものを
無理やり口の中に放り込まれて、それは飲み込だすことができず、
ただ吐き出すか、噛み続けるかの二択を迫られ続けるみたいな作風だと思うんだよね。
別にさ、描くものが希望じゃなくてもいいじゃん。単に不幸な存在を描くでもいいじゃん。希望を求めてた人がなんじゃこれって言うような救いのない終わり方になっちゃってもいいじゃん。描こうとしてるものが「どうしようもないもの」「取り返しがつかないもの」「希望がないもの」だっていいじゃん。
そういうどうしようもないものであっても、いっときは触れあうことはできるし、部分的にだけは救うことができる。逆に言えば、全てをすくいあげることはできないが、何かしら残るものがある。そのくらいでいいじゃん。そういう儚い希望ちゅうか、ほろ苦い部分描いてるのが麻枝作品だと思うので。なんかこう、やたら力強い希望があるよ、みたいなことを言われても全くしっくり来ないです。
でもまぁ、海燕さんの言ってることは全然間違ってはいないとは思ってます。確かに常に超越存在のことを描いてる。でもそれは目的や主題じゃなくて手段であり間奏部分だろと私は思います。力点とか重点の問題ですね。
余談2。私としてはやっぱりこっちの方が好きだなぁ。
およそ、不幸を伝え得ぬというほどの不幸はない。彼は貧しかったから不幸であった。野心に挫折したから、あるいは女に裏切られたから不幸であった。このような不幸には理由がある。つまり告白すれば他人が耳を傾けてくれるのである。だが理由のない不幸(略)をどうやって伝えられるか。しかもそれが日夜生理的に耐え難いほどに身と心を責めさいなむとすればどうしたらよいか。このようにいえば、人はおそらくそれは狂人の不幸、むしろ単なる狂気にすぎないというであろう。だが、私はそのような不幸の実在を信ずる。信じなければ、夏目漱石の作品にあらわれた仮構の秩序は理解できない、という理由によってである。(江藤淳「漱石像をめぐって」)
仮構は一切の社会性――つまり他人と共有しうる可能性――を奪われている彼の不幸を、社会的なものにしようとする努力、つまり理解されたいという願望から生じる。願望はもちろん自らを狂人と認めて不幸の実在を撤回することの拒否から生ずるのである。……
……他人に伝えにくい気持ちを伝えようとするときの、あのもどかしさを思えばよい。……このようなとき、人は一瞬沈黙して言葉をさがす。だが、言葉がどれも片々と軽くて、何の役にも立たぬと知ると、今度は一転して何かのたとえ話をはじめる。たとえ話は原始的な仮構で、その故にてあたり次第の言葉を並べるよりも本来の伝え難い気持ちを正確に暗示するのである。麻枝准のシナリオがしばしば寓話性や隠喩性やおとぎ話の名のもとに語られるし、それに異をとなえるつもりもないけれど、当の主人公自身が、自身の投げ込まれてしまった状況をおとぎ話的だと痛みとともに認識するというのは、あまり尋常な事態ではない。むしろそうした性質(と見えるもの)は、他人への「伝え得なさ」の表象として読み解かれるべきである。
「たとえ話は原始的な仮構で、その故にてあたり次第の言葉を並べるよりも本来の伝え難い気持ちを正確に暗示するのである。」とあるけれども、たとえ話が、ではなく、たとえ話としてしか言い得ないということそのものが、であり、本来の気持ちの内容ではなく何よりその伝え難さこそが実質なのだ、と言いたい
何がつらいかというと、不幸であることそのものより、それを誰とも共有出来ないことだと思うの。
人間ね、どんなに不幸であっても、その不幸を語ることができて、
それを誰かと共有できるのならば、なんとか生きることくらいはできると思う。
だからみんな伝えようと努力するわけじゃん。
自分がどんだけ不幸か語りたがるわけでしょ。
毎日毎日コリもせず誰かへの呪詛をはき続けるわけでしょ。
わかってくれる人を求めてメンヘラチックな振る舞いをするわけでしょ。
リストカットするのもそういうわけでしょ?
どんなに毎日が生き辛いか、苦しいかって、
心の中にあるだけで、誰にもわからないことじゃないですかあ・
鏡をみたら健康そうな私が映ってるし、
世間的に見たら貧乏ってわけでもないし。
美味しい物だって食べられるし、旅行だってできるし。こんなに辛いのに、外からだと、もしかしたら幸せに見えてるのかもしれない!
そう思うと、本当に悔しいですよねえ。
そういうとき、傷を付けて、血みどろでボロボロになった自分の腕を見ると、
ちょっとだけ心がおちつくんですよねえ。
自分の感じてるものと、実際の姿が少し近づいたような、
ギャップが少し埋まったような、そういう安心感があるんです。だから、もし身体のどこかにメーターがあって、
その人の気持ちの苦しさとか楽しさを正確に表示出来てたら、
きっと私はこういうことしなかっただろうなぁって思います。
メーターを見せればすむことですから。(中略)
つまり、心の辛さなんて、他人にはどうせわからないんです。
前島さんが千絵さんの辛さがわからなくたって当然です。
だから、決して安心しないでくださいよお!
いい加減に考えたら、駄目ですよお。
女の子の心の中は、お化け屋敷なんですから!
女の子の本当の気持ちは、深い茨の奥にあるのです。
傷つく覚悟を決めないと、そこにはたどり着けませんよ。(キラ☆キラ)
人にはどうしても他人に「伝えがたいもの」がある。
大抵場合、その「伝えがたいもの」を伝えようとするのはどこかで諦めて、忘れたり捨てたりする。
まあでも、中には「己の不幸やら孤独などの伝えがたいもの」を伝えようとするのをやめない人がいる。
それは大半の人には「狂人」に見えると。
苦労しなくても分かり合えるだけなら、みんな狂ったりしないよね。
でも、それを人と共有できないから、クマになったり虎になったり狂人になったりするわけで。
それでも、その伝え難さをずっと抱きしめ続けて、
諦めずに貫いたら、1000年に一人くらい呪いを解くために命をかけてくれる人が現れるかもしれないし
もしかしたらクマリア様が降臨されるかもしれないですね。
この問題に対する「希望」はそういう遥か彼方の距離にあるものだと思うけど、その位の距離でいいと思います。
ま、とりあえず不幸だと思ったら、その不幸を噛み締めながら生きればいいと思う。
その際、誰かと通じ合える可能性がわずかにでもあると信じていれば狂人にもならないし、諦めて忘れたり自殺したりもしない。その程度でいいと思います。