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「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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自分が「生産性」って言葉を使いたくなっちゃうとき

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類義語は「建設的な話じゃなきゃダメ」とか。「費用対効果がー」とか。

セルフ定義の「生産性」を語りたくなっちゃう時って、自分の場合はスランプ=変化の必要性を感じてる時、内面では変化しつつある時なんだと思います。

何か変化しつつあるけどそれがわからなくてもやもやする。「でもそれにあわせて自分も変わらなければ」とか「今までのものから離れて新しいものにシフトしていかねば」って考えてた時に、どこからともなくこういう言葉が出てきてたんじゃないかなって今からだと思うのです

いい感じで言えば、いままでやって来たことでは物足らなくなって来た、飽き足らなくなって来た。つまり成長ってことかもしれない。悪く取れば、非常に飽きっぽいとか、最初に考えなしに取り組みすぎてたってことかもしれない。


繰り返すけど、
自分がそういう風に「生産性がー」とか言ってた時を振り返ると、単に自分の趣味嗜好関心が変化しつつあっただけであって、あくまで自分にとって興味があるかないかだけが問題であり、生産性って言葉は実は全くこれっぽっちも関係なくて完全にピント外れだったように思います。

恥ずかしいー!



でも、私に限らずこの言葉を使うことで自分の中の変化を促せるならまあそれはそれでいいのではないかと思ってます。大事なのは自分が変化しつつあるなと感じた時によくわからないなりにエイヤで新しい方向に向かってジャンプすることであって、その時に私のように「要は勇気がない」人間は、なんかそれっぽい理由や理屈付けがいるという事実だと思われるので。


つまりなんでもいいんです。
「生産性」でも「シャバダドゥ」でも「ロジカルシンキング」でも。
とにかく自分が納得できればいい。
その言葉自体に意味は無いけれど、なにか、は必要なんです。
とにかく自分はこの手の「生産性」などの言葉は行動を起こすために一時的に視野をギュッと絞るための方便というかおまじないみたいなもんであると思ってます。
だからそれは否定したらダメなものだと思う。


ただ、その理屈や用語は道具に過ぎないし自分以外には通じないので用事が済んだら速やかにしまっとけ。絶対に他人に向けて振り回すなよ、…と。自分以外の何かに向けて振り回したことがある人間は思うのです。それをやってしまった瞬間にそのまじないの魔力はなくなってしまうのよね…。



変化を求めてるわけでもない他人との会話にいちいち「生産性がー」って主張して自分の視野狭め続けてると他人に失礼だし、なにより何かに衝突して事故る危険あると思います。事故って怪我するのは「生産性」的には最悪なはずなのにね。



まぁ、これはあくまで私の話です。
私の場合は社会人なりたての時期に社二病?っていうのかな。ビジネス書読んだり会社の先輩やら使う用語が格好いいと思い、己を見失って使ってる言葉や形だけマネしようとしてた時に、使い所わからずに生産性とか論理的にとか所構わずいいまくってたなあと。

そんな自分の失敗の話であって他の人はそんなことなくちゃんと「生産性」って言葉の意味をわかって正しく使えているのかもしれません。




とにかく、環境が変わったときとか、自分とタイプの違う人間と出会った時にすぐ生産性がーとか言い出したりしなければ、いいと思う。変化する自分を自己正当化するのにも使えるけどその逆も然りなので。