頭の上にミカンをのせる

「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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「迷惑かけてないからいいじゃん」という理屈を出した時点でお察し

その叫びは「人が自殺しないためのメカニズム」としてはとても大事だと思います。

でも、自分で納得するだけならともかく他者に向けるのはどうかと思います。

私はこの理屈を平気で他人に向けてぶん回す人をを心底バカだと思っているし
そういうことを平気で言えてしまう人が大嫌いです。

「自分が納得できればいいだけ」ならいいけど他の人にその理屈が通用するわけないのでは

この理屈は基本的に役に立ちません。なぜかというと

①誰がそれを判定するの?
本当に誰にも迷惑をかけていないかどうか、なんて自分だけではわからないからです。まさか自分の基準ではそうだからといって他の人が迷惑に感じる気持を否定するわけじゃないだろうね。



②そもそも完全に迷惑をかけないなんて可能なの?
「迷惑をかけていないかどうか」を判断する基準などないからです。というより、完全に関係がない相手以外は0か1で割り切れるものじゃない。「多少は迷惑をかけているかもしれないけれど許容範囲」という話になるかと思います。 そういうのを0だといいきったり1だと断定することは無駄です。


③お前の中だけで通用しても意味なくない?
社会というのはお前のために動いてるわけじゃなくて、いろんな人が集まって動いているので、お前一人にとって正しくてもそれを全体に適用することなど出来ないからです。誰かさんの「嫌儲」批判記事なんか典型的でしたけど、これわかってない人いますよね。



④いつから迷惑かどうかだけが論点だと思ってた?
大事なのは納得だと思うんですよ。別に迷惑かもしれないけれど必要なので、とかこういう事情があってやりたいんです。っていう主張でも全然構わないと思う。なのに「迷惑かどうか」だけの一点だけで突破しようとするからおかしくなる。なんでも「感受性」「こじらせ」などのヒトコトだけで解決しようとする人とと同類。大事なのは「迷惑かどうか」という点を論じることじゃなくて、その行為の是非を問うことじゃないのですかね。



集団においては、多くの人の利害関係を調整するために、0か1というきれいな形では無いけれども、ベターな形で共有できる最大公約数を実現するためにルールというものが作られます。
自然発生的に発生する集合においては、明文化されていなくても暗黙の形でマナーというものが共有されることがあります。



「自分一人にとっての正論」を無邪気に振りかざすことを議論だと勘違いしている人は、まだ議論に参加できるレベルに達していない

こうしたルールやマナーはもちろん必ずしも正しいとは言わない。少なくとも、ある人にとってはベストな形ではない。そんなのは当たり前のことです。成り立ちからしてそうなりえるはずがない。だからこそ、常に状況の変化に応じて話し合って変えていくべきです。

ただ、それを論じるときに必要になるのは人と人が一緒の空間で生活する以上、みんな多少は迷惑かけあってるけれど、このくらいまでは許容しようやというものがルールだという前提を理解することです。
この前提を共有できない人はそもそもルールやマナーに関する議論に参加しても自分に都合の良い部分を集めた自分にとっての正論、つまり極論しか言えません。


もちろん、それを極論だとわかって言ってるならいいんです。そういった極論をぶつけ合わせて調整していくんだ、というプロセスが理解できているなら。ただ、それこそがベストだと、唯一無二の意見だと思って言ってるならその人の意見は議論として意味をなしません。



別に発言してもいいし、感情論としてアンケート程度の意味はありますが、議論としては無価値です。ブコメを集めてバカにされるくらいが関の山でしょう。



正論の使い場所や使い道について

ネットでは他人の溜飲下げるような極論や正論吐く人が人気あつめる傾向にあるようだけれど個人的にはああいうのあんまり好きじゃありません。

正論はものすごく「適用可能な範囲が狭い」と思ってます。自分の中の優先順位などを確認し、守るために自分や親しい友人の中で共有するべきものだと思っています。「他の人はどう思うか知らないけれど、自分はこれが正しいと思うからそうする」というものだと思っています。

まして、「迷惑かけてないからいいじゃん」は正論ですらないワガママでしかないのでほんとに無価値だなと思います。




とある人物に自分の正論を押し付けようと長い間無駄な努力を続けていた自分は本当に愚かだったと思います。