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「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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炎上について その4  

私のネット観はだいたい2008年くらいに形成されたものをそのまま引きずっているものであり、
今となっては時代遅れになっている可能性は高いです(挨拶)


今の私が炎上について語る時に絶対に禁止したいワードは「承認欲求」だ。この言葉を使って炎上について語る記事は全て等しく意味が無い。私も過去に書いたけど。ほかならぬ私がそういう記事を書いたことがあるけれど。だからこそあえていうけど、そういう記事は意味がない。

代わりに、問題について考えるときに使いたいキーワードは「過剰適応」「過剰な最適化」だ。

目的を設定することで、視野は狭くなります。これが重要です。「目的」は、自分の視野を狭くするためにあります

弾言 成功する人生とバランスシートの使い方

人にはそれぞれ目的が有る。そして、その目的に適した行動を取る。目的に適した形でPDCAをまわし、最適化していく。最適化していくということは、目的に応じて各要素の優先順位を決め、優先順位が低いものを整理するということだ。目的があるからこそ人は何かを大事にする。目的が違う人間は大事なものが違う。

目隠しした馬の様に範囲の限定された目的は、必ずその持ち主の視野を狭くする。

http://www.a-inquiry.com/ijin/4661.html

もちろん目的が違って大事なものが違っても人は互いを尊重しあうことができる。というより、
人間社会の中で生きていくためには、たとえ己の目的にかなわないものでも、他人が大事にしているものを否定したり軽んじないことが大事だ。そこを軽んじるモノは人間の中では生きていけない。

だが、ネットでは生きていける。自分や親しい仲間以外の物をないがしろにしても存在できる。むしろ人間社会における煩わしさから逃れたいと願ってネットを利用している人も少なからず存在する。ネットでは、人間社会よりも遙かに自分の目的に最適化ができる。狭い狭い目的に絞って集中できる。他人のことなどお構いなしに。


ただし、ネットの中でも、人が多く集まったり「ウェット」な空間では人間社会よりは薄いものの配慮スべき他人は存在する。そういう場所であまりに「自分の目的に最適化しすぎた存在」というのは結局ネットでも浮く。己の目的を追求する余り、目的と関係のない部分で人に迷惑をかけてしまうことがある。しかし、目的と関係ないから、そこでトラブルが起きても重視しない。

自分と、せいぜい目的を同じとする人たちのことしか考えない過剰に狭い目的、その目的への過剰な適応、過剰な最適化。そういうものが下記のような態度を引き起こす。目的に関係なければPDCAは発動しない。たとえ周りの人間からみれば大問題でも本人にとっては重要ではない。考える必要もない。だから無視する。極めて自閉的だが彼らの中ではそれが合理的だ。

指摘してもまったく目を通さない。エントリの中身自体に問題があるために批判を浴びた場合であってもまったく耳を傾けない。ブックマーク互助会は自分たちの目と耳に優しいコメントしか受け入れない。

http://yrc.hatenablog.com/entry/2015/11/11/211924

面白いことに炎上を起こす人間に限って「ぼくのかんがえたさいきょうのネット」とか「ぼくのかんがえたさいきょうのはてな村」など、己の理想のネットの姿を語る。つまりネットですら自分の目的にとって最適化されて叱るべし、と考えていると思われる。

根本的にそういう人について考える際にいくら「承認欲求」なんて言葉を使っても無駄である。それをいうと「オマエだって承認欲求あるだろ」って話で終わるから。 大事なことは「目的」の違い、あるいは「目的」の小ささや、目的のためとはいえ他人に迷惑をかけることは正当化されないというアタリマエのことを考えるしか無い。

個人的には彼らがやろうとしていることはわかった気がする、そしてそれはわたしのやろうとしていることと大きく違ってた、同じかと思ってザワザワしながら見つめてたけど違ってた、ごめん、という感情の決着をみた

結局はここに落ち着く。


<「誹謗中傷」と「批判」は違う~「批判」には耳を傾けて~>なんて言っても無駄である。

それは何度も何度も何度も何度も繰り返し言われてきた。しかし一切意味がなかった。彼らは己の目的に関係しないことは一切反応しない。重要ではないからだ。 彼らに何か言葉を届けるには、彼らに伝わる言葉を工夫しなければいけない。彼らにとっては正論など、外側にいる人間の自己満足でしかないのだ。

まぁ、私はたとえ自分に関係なくても正論に一定の配慮を示す人間を信頼するけれどね。




私はそういう意味で、最近久々に見た「花物語」における貝木泥舟のアプローチが好きで好きで仕方ない。

千石撫子という化物がいる。可愛さや愛嬌しか取り柄がなく、どうしようもないほどバカで、自分以外のすべては他人事でしかない。自分の気に入らないものはすべてはやり過ごせば良いと考えている。自分に優しくない誰の言うことも信じない。ほとんど「白痴」だ。非力であるかぎりにおいては、可愛さ以外のほとんどすべてを剥奪された彼女は純粋で理想の愛玩動物である。「美少女」の究極に近い。

この千石撫子が突如自分の意思を示した。そしてあらゆる過程をすっとばしていきなり最強の化物になった。こうなってしまうと今までの扱いのせいで誰の言葉にも耳をかさない。「阿良々木暦を殺す」という目的に反することには何も受け付けない。そういう状態になってしまった。どれほど丁寧に関係を築こうが、信頼関係を積み重ねようが、己の目的にケチを付ける奴はすべて敵とみなす、そんな状態になってしまった。

で、どうしたか。貝木泥舟は逆に考えた。目的がなければ話を聞かないなら、目的に敵わないなら話が通じないなら「話を聞せるための目的」を与えればいい。だから「別の目的」を用意した。「これこそがオマエの目的だろう」というものをでっち上げて、信じこませた。 彼女自身、話をしたかったが、たったひとつ存在する目的を失ったらもう他にやりたいことも何もないからそれにこだわるしかなかった。だからそれがでっち上げだとわかっていても「別の目的」に飛びついた。それによってはじめて会話が成立するようになったのである。


この話から得られる教訓は、炎上するような人間は、炎上を繰り返すような人間は他の人間がどんなにバカにするようなものであっても、異常だと後ろ指をさすようなものであっても「目隠しした馬の様に範囲の限定された狭い」目的であっても、それにすがらざるをえないような目的が有る。その目的を否定するのは簡単だが、それでは何の解決にもならない。会話が通じない。その状態で正論など言っても無駄だ。まず正論を通じるようにしなければいけない。 ならば、目的を理解してそれに合わせるか、本人が受け入れられる別の目的を用意することだ。 最低でも相手の目的を知らなければならない。 相手の目的への理解を拒んで「承認欲求」などという言葉でごまかしても意味が無い。それはコンプライアンスというような格好いい横文字を使って何かをごまかしているのと変わらない

一寸の虫にも五分の魂じゃないが、炎上ばっかりしてバカにしか見えない存在にもその人なりの魂(目的)が有る。それを理解してやるか、そうでないならきっちり無視して差し上げようじゃないか。 それができないなら、その人に対していくら正論を言っても無駄だろう。

ということを3年位前に理解していれば、私ははてなブログでアレを相手に無駄な時間を過ごさずにすんだろうか。