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「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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「意識高い」という言葉に紛れがちな「邪悪」な精神(=悪性のナルシシズム)への対処について

マックイイーン。 君こそ、真ノ邪悪ダ。君には「敵意」がナイ。「敵意」……「敵意」には力が向カッテ来ル……ヨリ強い力が「敵意」を必ずタタキにヤッテ来ル…「敵意」はイツカ倒サレル。 実に単純ダ。ダガ君は違ウ……君には敵意もナケレバ、悪気もナイシ、誰にも迷惑ナンカかけてナイと思っテイル。自分を被害者ダト思っているし、他人に無関心のクセに、誰カガイツカ自分を助けてクレルト望ンデイル。だが、ソレコソ悪より悪い「最悪」と呼バレルものダ。他人を不幸に巻き込んで、道づれにスル「真の邪悪」だ
(荒木飛呂彦「ストーンオーシャン」より)

ttp://d.hatena.ne.jp/yuhka-uno/20160401/1459509203 (※なぜかこの記事は現在非表示になっているようです)
読みました。


この記事ではだいぶ言葉を選んで書いている。

・こういうことをしてくるタイプの人は、「自分の責任」という感覚が希薄な傾向があると思う。

・そして、相手が何を抗議しているのかを考えて、内省して、以後それをしないようにするという「成長」ができない人だとも思う。

・今後何をどう改善していったら良いのか、本人はわかっていないしわかろうともしないので、また同じことを繰り返すだろうということが、容易に想像でき

その気遣いはとてもよいことだと思うが、そのせいか彼女が書いていることを文面で理解できても、こういう人たちがいかに迷惑であるかを実感するのは難しいかもしれない。そういう迷惑な人間を直に体験したことがないと「そこまで言わんでも」と感じる人も少なく無いだろう。非常にタチが悪いのだが、直接被害にあっている人以外はそのタチの悪さが伝わりにくいのが厄介なところなのだ。

こういう人たちのタチの悪さをとらえ、これこそが真の邪悪だと喝破したのが荒木飛呂彦だった。「人間讃歌」をテーマとするジョジョの奇妙な冒険という作品においては、マフィアのボスであったディアボロやDIOと同等かそれ以上の位置づけにある「最悪」であり「真の邪悪」であると扱われている。これはとても重要なことだと思う。人それぞれ反応は違うだろうが、私はこの荒木飛呂彦の「邪悪」の考え方に強く同意する。



北条かやさんや京都なんとかの人は今後「邪悪」(=悪性ナルシシズム)の精神の持ち主だという認識を持って接したい

「邪悪」という言葉はevilの直訳であるが、日本人にとって強すぎるかもしれないので「悪性ナルシシズム」という言葉の方がよいかもしれない。この邪悪な人=「悪性ナルシシズム」の持ち主というのは、一般的な悪人のイメージと違う。

何が厄介かというと上で書いたように本人たちに明確な悪意がないということだ。この手のタイプの人は「良い人」に見えるように振る舞うし、実際一般的な意味での「悪人」=「悪意の強い人」ではない。ただ「無自覚に、悪意なく邪悪をなす人」なのだ。「悪意がないのに結果として悪い結果を引き起こしてしまう。そして批判されても自分は悪いことをしたと思っていないから反省もしないし、むしろ仲間を増やそうとする」これが最悪なのだ。

普段相手の「内面」を気にする人は対応に失敗しやすい。わたしは少し前に「相手の気持ちを大事にしたほうがうまく行きやすい」ということを書いたけれど、こういう相手にはその対応は思いっきり逆効果になる。この事例でも普段優しい人や常識的な発言をしている人の中に「叩きすぎだ」「弱っている人を叩くのは可哀想だ」という反応をしている人が多く見られた。

通常ならば間違いではないし、私もそちらの立場にたったと思う。しかしこのタイプの人間だけは例外なのだ。むしろあなたの考えはどうでもいい、結果としてあんたのやってることはダメだ、という対応をしなければいけない。そうしないと、こちらが取り込まれてしまう。 相手がいいとか悪いではなく、相手に悪意がなくとも、むしろ明確な悪意がないからこそタチが悪い、自衛するしかない、そういう人間もいるのだということはわかってないと、関わった時に大きな被害を受けてしまう。

もちろん、積極的に叩けと言ってるのではない。むしろこのタイプの人には、言葉で注意したり責めたりすると逆効果になる。叩いてはいけない。ただこちらが「そういうものなのだ」のことをちゃんと認識して距離をとるよう心がけなければいけない。



多分ここまで書いても、わからない人にはわからないと思うが本当にタチ悪いんだよ~~(´・ω・`)



「邪悪」(悪性ナルシシズム)の持ち主かどうかは、批判への向き合い方でだいたいわかる

自分自身の罪悪感に耐えることを絶対的に拒否する、というのがこの「一線を越えた」人たちの特性である

という記事で以前「邪悪な人の特徴」として6点紹介しています。


①邪悪な人は、攻撃された時に、「冷静なふりをして」相手に侮蔑的なレッテルをはります。批判に対して、その内容を検討する前に二言目にはいきなり「私を批判している人は嫉妬してるんです」と言い出すタイプの人はまずいですね。

②邪悪な人は相手をだまらせるためにいろんな搦手を使います。批判された時に名誉毀損で訴えるぞ、などとちらつかせたり「死にます」などと脅しをちらつかせるタイプの人も危険ですね。

③邪悪な人は批判された時に「自虐おわび」をしたり、「自分がどれほど大変か」を一生懸命アピールして批判する人を逆に攻撃します。作り手はこんなに努力してる。同じく苦労して何かを作ってる人は批判するはずがない、などと全く意味のないことを言って正当化しだすと「あっ(察し)」となりますね。

④邪悪な人はとにかく肩書や自分たちのやってることの意義を一生懸命語りたがります。これ自体は必ずしも悪いことではないのですが、何か個別具体的なアウトプットを批判された時にすぐにこういうことを言い出す人は、やはり問題とむきあうことを避けるためにこういう逃げ道を用意していると考えられます。

⑤邪悪な人は「炎上にあった時でも自分を曲げない」ことを誇りにするケースが非常に多いです。普通とくらべてリアクションが異質で、炎上したことをよろこび「自ら炎上を仕掛けた」という体をとるか「炎上にあった時の対応策」なる記事を得意げに書き上げることが多いです。 問題があったら直せばいいという普通の考えが通じません。

⑥邪悪な人は批判された時に一見謝っているように見えて「問題についての反省を伴わない謝罪」をしながら相手を攻撃します。例えば「真意が理解されなかった」とか「自分が悪いことをしたではなく相手が感情を害したから」という理由で謝るのです。これによって「自分は何も間違ってないが、相手が勝手に問題を起こしている」という図にすり替えるのです。



こういう特徴があるから直ちに邪悪というわけではありませんが、複数の条件を満たすほどに蓋然性は高くなりますね。


つまりどういうことかというと、「邪悪」な精神の持ち主は罪悪感に耐えることが出来ないため、ほぼ100%セント「きちんと謝る」ということが出来ないということです。(「逆」の「謝れない人は邪悪である」は真ではない点に注意)


とにかく絶対に自分の謝りや、不完全性を直視できない。特殊な経路や理屈付けがなければ学習しようとしない。インプットがかたよるから、どんどん蓄積されるものも偏ってきて歪む。その結果が「自分の命を人質にして相手を脅迫する人たち」の出来上がりというわけです。こういう存在は「可哀想な人」ではなく「邪悪な人」かもしれないと認識して警戒しないと、対応を間違い、場合によっては取り込まれてしまいます。



「邪悪な人たち」への対処方 = 問題点は指摘するが、その後は「ちゃんとした対応をしない限り一切取り合わない」こと。

yuhka-unoさんの記事の末尾にすばらしく簡潔に語られてますね。

「じゃあ死ねば」と言うのではなく、こちらは「死ね」とも「死ぬな」とも言わずに、徹底して「それはあなたが決めることですね」という態度を取るということです。「死ねば」とか、相手の生き死にに関与するような言葉をこちらが言ってしまうと、相手に「だって、あなたがそう言ったじゃないか!」と言われて、そこをつけ込まれるので、その隙を与えないようにする戦略を取るということ。「死ぬな」と言うと、「私に死んで欲しくないって言ったでしょ。だから言うことを聞いて」とくるし、「死ね」といえば、「じゃあ死にます。(だって、あなたがそう言ったから)」と言って、手首を切ったり道路に飛び出したりするし、「○○さんに死ねって言われたから~」とか言い出すので。

今まで述べてきたように、「邪悪な人たち」は対人関係のトラブルは全部相手のせいにします。 批判した時にその内容と向き合うことは絶対にしません。記事について「内容」に触れて反論できる人はまだましです。面白いことに邪悪な人の場合はは批判に接した瞬間に脳が拒否するのか読解力が全く働かなくなります。その結果、批判内容とは別な属人的要素みたいなことしか言わなくなります。「批判する人が◯◯だから」「◯◯あんに嫌われたから」「◯◯が老害だから」「◯◯が私とは違うから、私の事を受け入れてくれないから(究極的にはこれを言ってるだけです)」

こういう場合は、とにかく「切り離す」しか無いでしょう。 課題の分離です。 「それはあんたの問題です」と突っぱねないと、すぐ取り込まれてしまうので注意しましょう。



今まで放置してきたネットの「邪悪」(悪性ナルシシズムのせいで成長を拒否する人たち)の扱いをどうしていくべきかはそろそろ考えるべき時期なのではないか

また、こういう存在について「単に迷惑な人だな」「気の毒な人だな」くらいの認識で済ませてしまう人が多いと思う。それどころか、「◯っクルさんは天才」「青◯才さんの通常運転」「まだイ◯ハヤで消耗してるの?」「北◯かやさんに嫉妬してるおばさんの嫌がらせでしょ?」「~~のブログはスルー・そっ閉じ推奨」そういう扱いになる。日本人特有の考え方かどうかは分からないが、炎上する人たちもすぐ「穢れ」扱いされ、批判すると逆に批判している人まで「穢れ」と扱われるようなところがある。どうしようもないやつのことは深く理解する必要はない、放っておけというわけだ。 リアルではそれでも良かったかもしれないが、最近ネットではそういう扱いをされた人間が、排斥された先で既存の集団を攻撃し、注目をあつめることで増殖をしていくのです。しかも現在はその行為がPVや金という実利に直結している。「邪悪なままでいることに、またそういう仲間を増やすことにインセンティブが発生している」状態になっているように感じる。



「さて、どうしよう」やっぱりちゃんと批判しようか、というのが現状だと思う。 ほんとにこの手の人達ってどう扱ったらいいんだろうね。