言及いただきました。
私は矢野大地さんの元記事については「表現がまずいんじゃないか」とか「人の質を云々するところはすきじゃないな」という気分になりまいたが、そういった要素を除いては全体としては悪くないんじゃないかな、という感想を持ちました。
しかし今回そこは抜きにして、あえて「批判に対する態度」という部分に絞って話をさせていただきます。
矢野さんの批判に対するスタンスがこの記事(ブログをしてたらdisられるのは一つの指標? : 自由になったサル)の通りだとして、こういった内容を書く方と建設的なお話ができるとも思えないので、本記事は「僕が不快に思った」ということを主張するだけにさせていただきます。
「今まで放置してきたネットの「邪悪」(悪性ナルシシズムのせいで成長を拒否する人たち)の扱いをどうしていくべきかはそろそろ考えるべき時期なのではないか」(小見出しより)ということを僕なりに考えた結果、不快だと思ったことをちゃんと書くことにしました。これが「ちゃんとした批判」になっているかは、自信がないのですけれど。
はい。私はそれで間違いないと思います。「どうせ伝わらないから放っておこうぜ」とこちらから諦めるのではなく、意思表示はしっかりやっていくのが良いですよね。
批判を受け取るか受け取らないか、どういう受け答えをするか、というのは批判された側の人の問題です。批判しようとする側の人ができること、すべきことはただ、批判すべきと感じたことについて、きちんと意見として成立する形で伝えるのみです。それ以上のことはできません。
批判する側はこちらがやるべきことをきちんと理解してそれを胸を張っていっかりやれば良い。それについて相手がごまかそうとしたり、自分勝手な理屈でこちらに責任を押し付けようとしても、原則さえ理解していれば気にすることはありません。自分がおかしなことをしていないのに、おかしな結果になるとしたら、それは批判を受けた側の人の反応がおかしいのですから。
ちゃんと「意見」として形になっているなら、「それが批判か誹謗中傷か」「書いた人の内面や動機はこうに違いない」などとという無意味な話に付き合う必要はありません。
よく批判と誹謗中傷を区別しようという試みがされていますがみんな勘違いしています。「批判」も意見の一種、コミュニケーションの一種ですから、特別扱いする必要はありませんし、特別扱いされる言われもありません。
重要なのは他のコミュニケーションと同じで「コミュニケーションを取る意図を持って言葉を発しているかどうか」です。もう少しかみ砕いて言えば「意見として理解可能な形になっているか」「コミュニケーションとしての形をなしているか」です。言葉遣いは多少気をつけるとしても、悪意かあるかどうかやその人は批判してる人のことに嫉妬しているかだの好きなんだのという内面の話は文章のみから判断できません。 ちゃんと意見として成立しているかどうかが大事なわけです。
「ちゃんと意見の形になっているのならば、それはコミュニケーションをとる意図があって発されている」と判断することが出来ます。ちゃんと論拠があって、反証可能だからです。こういう人は、ちゃんと受け取れる形でボールを投げたと自信を持って良いです。
ちゃんとボールを相手の受け取れるように投げたのであればコミュニケーションにおいてこちらが果たすべき役割は終わっています。 それを受け取るかどうかは相手の問題です。
批判に反応するかどうかは自由だが、いざ反応するのであればそれなりのルールはあるんです
私は批判だったら必ず向き合えと言うつもりはありません。そのような義務はありません。批判された時に、批判に向き合うかどうかはその人の自由です。
私は先程言ったとおり、意見として成り立っていないもの。根拠が示されていないものはは相手にしません。それはただの感想であって、なぜそう考えたのかがわからなければ反応のしようがない。そういうものはこちらとのコミュニケーションを意図していないと判断します。また、不愉快な物言いの人も相手にしないことが多いです。 義務がないのだから、反応したくないものは反応しなければいい。それならそうと「不愉快だから相手しません」と基準を述べればいいわけです。
批判を無視するのは問題ない。でも、いざ相手をするならばそこからはコミュニケーションの作法の話になってきます。
相手は「論拠」を示しつつ「意見」をのべているわけです。それならば、その論拠に対して反応を示すべきです。ちゃんと意見に意見で返すべきでしょう。そこを無視するということは、相手をないがしろにしているということになります。コミュニケーションを取る意思がない、コミュニケーションを拒否する意思を示したということに等しい。これでは「私はちゃんとした意見のやり取りができない、したくない」と言っているのと同じです。
この点において、私は矢野大地さんの批判に対するスタンスは極めて幼稚な理屈であると感じます
それで矢野大地さんという人の記事を読ませていただきました。
読んでたらだんだん気がついたんですよ。「あ!この人たちは僕らのことが本当は好きだけど、恥ずかしくて批判しかできないんだ!」って。だって、大晦日も新年になっても、ずっと僕らのことを考えて、心配してくれているんですよ。あ〜愛されてるな〜って感じました。ありがとう。
なんて素晴らしい妄想癖と想像力、そして愛を持ち合わせた人たちなんだろうと僕は感心しました。まあ、でもその素晴らしい想像力を他の場面で生かしてほしいな〜そしたらもっと日本は良くなるのにな〜なんて正直なとこ思っています。
disりたい人は今後もどんどんdisってくれればいいと思っています。disられるってことはそれだけ注目される存在になってきているってことですからね!
はい。これは極めて幼稚な態度といえます。人格が幼稚かどうかはわかりません、幼児の行動です。明確にコミュニケーションを拒否している態度ですね。そもそも批判とdisの区別がついていないしつけるつもりもない。とにかくそういうものは全部まとめて拒否します、と言ってるわけです。 極めて雑な思考です。
相手の言い分をまるで受け止めようとしていない。「感想」を述べているだけ。そこには論拠もへったくれもありません。自分がそう思いました、というだけ。 これ幼児がよくやる「アーアーキコエナイ」と「バカっていうやつがバカなんだゾ」ということしか言ってません。
つまり、この人はコミュニケーションが成立するようには思えない態度をわざわざ表明しているわけです。こういう態度はネットだからこそ、なのかもしれないためこの人自身が幼稚かどうかとかそういうのはわかりません。ですが、ネットでこの人とコミュニケーションを取るのはあまり期待できそうにないですね。(わかっててやってるのかなあ……)
言っても無駄と諦めるのではなく、おかしいと思うことをおかしいという意見は都度伝えるようにしたい。その後は彼らの問題です。
というわけで、asayさんの心労お察しします。こういう人を相手にするのは徒労感が非常につよいですよね。
今まではこういう人たちは放っておいても信頼性を失い、そのうちフェイドアウトしていく運命でした。なぜかというと「都合の悪い人とはコミュニケーションを取らない」という態度の人の世界は広がらないからです。今でも長期的には殆どの人はそうなるでしょう。 しかし、しばらくの間は、こういう人たちが自分の行為を改めなくても生きていけるような仕組みに今のネットはなってしまっているようです。炎上記事を書くことや、炎上するような問題行動をとって騒ぎを起こすこと自体がインセンティブとして機能するような状況みたいですね。本当に馬鹿げています。
なので、無駄かもしれなくても、やはり批判すべき行為があれば、その都度指摘していく人は必要なんじゃないかと私は思います。まあ、ネット上の人間なんて他人だから無視すればいいのかもしれないですけどね。「わざわざ相手するなんて暇人だね」だの「僕の事好きなんだね」とか「粘着するな」と嫌がらせをしてくる人までいて、何一つ得しませんし、ほんと馬鹿馬鹿しくなりますけどね……。
それでもなんで批判するのかといえば、いろいろ理由付はできますが、ぶっちゃけぶっちゃけ自己満足です。自分がすっきりしないからです。でも、そう割りきって、おかしいと思うことはおかしいということくらいは許して欲しいですよね(笑)
地方活性化については「4種類の人」をイメージしてみてはどうでしょうか
ネットの議論を活性化するために必要な4つの「もの」 - この夜が明けるまであと百万の祈り
地域活性には4つの欠かせない人材の要素があります。
1.わかもの
2.よそもの
3.きれもの
4.ばかもの
こうした人材を受け入れて、活かす事が出来る土壌が必要なんですよね。
また、地方に移住する人が必ずしもその活動に参加しなければいけないというわけではない。いろんな人の活動が合わさって達成するものだと思いますから「自分たちの取り組みだけが有意義」「これだけが正しい」と、自分から出発するのではなく地方にとって何が必要だろう、地方ではどういう人達がどんな活動をしてるんだろう、と見渡してみてその中で自分はどういう立ち位置で、なにをやればいいだろう、みたいなことを考えればいいと思います。
そういえば2015年1月に取り上げたこの作品、単行本化し、国会にまで取り上げられたそうです。「日本死ね!」だけじゃなくて、こういう前向きな話題をもっとはてなで取り上げていこうぜー。