過去記事再掲&追記。
山田ズーニーさんの本から「文章を読むこと」についての話を紹介します。
この本は、日頃私たちが無意識にやっているコミュニケーションについていろんな示唆を与えてくれるこの本でとてもおすすめですので是非是非読んでみてくださいませ。
「自分の世界から1歩も出ずに読んでいる」だけでは文章を読んだと言えない。
だいぶ前にとある人のラノベの感想があまりに実際の作品と食い違っていて話題になったことがある。*1
本当にあまりに違いすぎていて「どこをどうやったらこういう読み方ができるのだろう」と不思議に思うほどだった。
ただ、ここまでではないにせよ、文章を読んでいて誤読とか思い違いって結構ある。あとから「誤読した」というのはわかるのだが、「なぜそうなってしまうのだろう」って意外とわかりにくい。
この本によると、どうやらこういうことらしい。
文章を読めるんだけど、読めない?これはひと言で言って、「自分の世界から1歩も出ずに読んでいる」からだ。読み手は、自分にとって心地いい部分だけを拾って読み、それ以外の情報はスルーしてしまっているのだ。いまの自分にわかる、直接役立つ、心地よい部分だけをスルスル拾って読んで、その結果、心地よい部分と部分をつないだ、都合のいい世界が像を結んでおり、本の全体像すら描けない。
ましてや「筆者が一冊を通して本当に言いたかったことは何か」など、あちらの世界に行かないのだから説明のしようがない、というか、この読者にとっては、もともと関心のない、どうでもいいことだったのだ。
情報化社会、ネット社会になって、私たちは、文字量にはたくさん触れるようになった、しかし、それらをザッピングしながら、自分側の都合・必要に引きつけて読むようになった。
「文章を理解する」には「文字を読む」とは少し違う心構えが必要らしい
どうやら、私たちは効率よく情報を処理しようとする余り、文章を単に文字列や単なる情報の羅列として読み飛ばす習慣が付いてしまっているという話のようだ。文章を読んでその考えを理解することが目的ではなく、文章についてとにかく何か自分の考えを述べることが目的になっているのかもしれない。むしろ、どんどん情報を処理するために早く読もうとしすぎるからこそ、こういう「ただ文字を読むだけ」の読み方になってしまっているのではないかしらん。
ネットの記事みたいにどうでも良い話ならそれでも良いかもしれない。でもそれだと本や小説は読む意味が無いだろう。わざわざ手間と時間をかけて小説を読んでいるのに、読み方がわからなくてそこから何も得られないどころか、間違ったものしか得られないのは虚しい。それなら最初から読まなければとなってしまう。 こういう結果になると、時間の無駄なだけでなく、本を書いた人やちゃんと読んでいる人からすれば間違った形で言及されるのはただの迷惑だろう。 誰も幸せにならない。
いくら文章が早く読めても無意味な読み方はしたくない。
「もともとやるべきでなかったことを効率よくやることほど、非効率なことはない。」 ピーター・ドラッカー
しかし、ではどうすればいいんだろう。文章を読むってどういうことだろう。
ここから追記部分です。口調が変わりますがご了承ください。
文章を読むとは「相手の文脈に飛び込んで取りに行く」こと
文章を読むのが、なぜハードルが高いかというとそこに常に、自分とは違う独特の「他人の文脈」があるからだ。場合によっては、ひととおり最後まで読んで、「この人の論理構成はこうだったのか!」とわかるまで、さっぱり、何を言いたいのかつかめないということもある。「相手の文脈に飛び込んでいかなければいけない」これが、文章を読むときに、グッとハードルが高まる理由だ。
決して、自分の文脈に引きつけて読むな!言っていることがわからなくても、共感できなくても、飲みこめなくても、心地わるくても、苦しくても、「あっちの文脈」に、食らいついて取りに行く覚悟で読め!自分にとってわかりやすいかどうか、必要かどうか、役立つかどうか、心地いいか、なんてどうでもいい。そんなものにとらわれていたら、結局、何カ月たっても、自分の乗っている船の全体像は見えてこない。読むべき文章と読まない文章をいまの自分の文脈で選ぶな!
相手は自分と違う文脈を持っているということは大前提です。限られた家族や友達といった人たちとの会話とはここが違います。「自分の感覚に合うかどうか」で判断するのであれば、最初から結論やあらすじだけ読めばいい。
そうでなく文章、を読むならば「相手の文脈」ごとつかみにいかないといけないわけです。文章を書いてる人もそう思ってわざわざ文脈込で文章を書いているはずなのだから。
これは「わかったつもり」という本でも書かれていたことなのだけれど、他人が書いた文章を読むには自分の認知を客観的に認知する「メタ認知」という土台が必要になります。自分の認知を絶対のものとするのではなく、あくまでいろんな考え方の1つとすることですね。「このメタ認知」という土台があることによって自分と他者の違いを理解することができるようになります。
その「メタ認知」によって、自他の区別を理解し、その上で文脈の違いを乗り越えて、相手の書いていることや主張を理解しにいくことが「文字ではなく文章を読むということ」ということなんじゃないですか、と言ってるわけですね。共感するだけが文章読むことじゃないし、むしろ「共感なんて出来ない、自分とは違う人の話」だって理解できる。そこが文章の強みなのではないかということです。
ちゃんと読むのはしんどい。だからこそ「何のために手間ひまかけて文章を読むのか」という目的を意識して取り組む
読むのが苦しいと感じるとき、あなたは、いまだ経験のない世界に片足を出し、「あっちへいこう、あっちへいこう」ともがいている。苦しいのは、自分の氷山ではなく、他人の氷山の奥にあるものと交信し、そこをつかみにかかっているからだ。苦しくたっていい。読むことで、あなたの経験を超えたスケールへと、視野を切り拓いてほしい。
(中略)
1年つづければ、自分の経験の範囲を超えたスケールで視野がひろがっているはずだ
単に文字として、情報を切り取るためのものとして読むのではなく「相手の文脈・経験」を理解するという訓練のためにやってるわけですね。
みんな自分の経験や文脈に基づいて何かを伝えたいから、わざわざ手間ひまかけて文章書いてるわけです。そこを理解しないで、結論だけみて「自分はそれが好きか嫌いか」みたいなコメントだけ付けて終わりとしてしまうなら、読む前と後で自分を再確認するだけで、何一つ変化なんて起きないですよね。
せっかく文章を読むのであれば、最初はその手間ひまかけてでも、自分と違う他人を理解するようにしたほうが、同じ読書という経験からでも得られるものが大きいんちゃうかなと思います。
「相手の文脈」が読めない人なんていない
なんか難しそうに書いてますが、本当はそんなむずかいい話ではないです。「マンガ」や「アニメ」だったら結構みんな結構頑張ってキャラの心情を考えたりするじゃないですか。みんなが自分の思い込みを押し付けるような読み方をしていたら「飛影はそんなこと言わない」なんてエピソードが話題になるはずはない。たとえ無意識でも、キャラを主として考えながら読んでいる時はばちゃんと理解するようによめているというわけです。これと同じように文章でも読み終わるまでは、自分ではなくて文章を主役にして付き合ってあげましょうということです。 読み終わった後自分で考えるのはいつでもできるのだから。
*2
文章読むのに慣れていない人は「二回読み」と「キーワードの正確な理解」を心がけてみるところから始めよう
ちょうどこういう記事がバズってたので乗っからせてもらいます。
この記事では二度読みの効果とその方法について語られています。山田ズーニーさんの本では、それぞれの意味付けについても書いています。
1回目は、文脈をとらえるための読み。それゆえ、文章の細部にこだわらず、文章全体を、最初から最後まで一気に通して読む。ところどころわからないところがあっても、立ち止まらない。違和感があるくだりも、そこで立ち止まってほりさげない。筆者がどんな「論理構成」で文章を書いているのか、一気に通して読んで、まず、つかむ。
2回目の読みは、じっくりと、意味を考えながら、わからない用語があったら、辞書を引きながら、考えながら読む。
さらっと読んで引っかかった文章だけでも、こういう読み方を意識してみると、読書から得られるものが増えるかもしれませんね。
*1:http://alphabate.hatenablog.com/entry/20130414/1365929013
*2:上の2つの間違った読み方をしてる人たちは「自分に引きつけて読み過ぎる」「自分の外に出ることを怖がり過ぎ」「ろくに理解もできてないうちに物事を短絡的に判断しようとしすぎ」ですけれど、この人も能力の問題ではなく気構えの問題だと思ってます。