頭の上にミカンをのせる

「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

最近のこのブログのお気に入りは「アークナイツ」です
アークナイツ
kindleセールの紹介
新NISA解説ブログ
発達障害

「啓発」と「煽り」の違いについて


「僕がみんなを煽る理由」

ぼくはみんなはいちど起業すべきだと思います。

なぜかといえば、第一に本当にそう思うからです。みんな起業したほうがいいですよ。

第二にぼくがいくら言っても起業しない人は起業しないからです。

ちょっとこれはちょっとひどい。「なぜかといえば本当にそう思うからです」が根拠になると思ってるのだろうか? ついでにいうと「第二に~」の文章が「みんなは一度起業すべきだと思う」理由ではなくて「僕があおる理由」になってますね。



……これ、重箱の隅つつきだと思いますか?

私はそうは思わないです。この短い文章から感じ取れる思考こそが、ちきりんさんやイケダハヤトさんの、つまり「あおり」ブロガーの思考法の本質的な問題点だとすら思ってます。

なぜか? 何が問題なのか。

「私がそう思うから」を越えられない煽りに耳を傾ける価値などあるだろうか

ちょっと考えてみてください。

この流れで、「なぜか?私がそう思うからです」って言ったらどう思いますか?こいつバカじゃねーの?とか話にならねえって思いませんか?

これが「あおるだけ」の人と、そうでない人の違いだと思う。

*1


「啓発」と「煽り」の違いは「根拠の有無」=「相手への責任の発生」かもしれない

「~するべきだ」って主張をするとき、それを読んだ相手は何を求めるでしょう。「なぜ?」って聞いてるとき相手が求めてるのって何でしょう。

①「あなたがそう思う理由」

まずこれが最低限ですよね。

最低限これが説明できない文章は、結果として正しくてもただの思いつきと区別がつかない。思い付きなら別にそれでもいいんだけど、なんらかそう思った経緯があるはずですよね。わざわざブログで長文書いて主張するのに、なんでこれを書かないの?これを説明しないなら、ツイッターで主張だけを呟いてればいいんじゃないかな。


②「読み手もそう考えて行動するべき根拠」

「あなたがそう思う理由」だけでなく、これがあるから「~べき」ってことばを使ってほかの人に呼び掛けてるんですよね。

それとも、自分がプールに行きたいと思ったから、誰それ構わず「みんな今日はプールに行くべき」っていうのですか?よほどのかまってちゃんでなければ、普通はそんなことしませんよね。

「どういう人に向かって」「どういう根拠で」そうすべきと言っているのか、ということを考えれば、「なぜ読み手の人は~すべきなのか」が大事になってきますよね。

煽りブロガーは、責任を取りたくないからあえて「煽り」にとどめているのかもしれない

それにしても2番の理由は、煽り屋さんの本質みたいなものかもしれません。

第二にぼくがいくら言っても起業しない人は起業しないからです。

つまり、自分は責任とは無縁であるといってるわけです。(記事ではさらに「自分があおる分には責任がないが、あおらない人には責任が生じる」と主張するクソロジックを展開しており、あらためてイケダハヤトさんへの苦手意識が強まりました)

f:id:tyoshiki:20160612164049j:plain

もしかしたらイケダハヤトさんは本当はちゃんと根拠があって、他人を納得させられる文章が書けるのかもしれません。というかその気になればまず間違いなくできるでしょう。ロジックが不在のままでずっと作業を続けることは難しいから。

しかし、「相手」を特定したり、「相手にとってのなぜ」まで込で話をすると、発言者に責任が出てきてしまいます。間違ったことを言ったら、それを取り下げなければいけない。

私なんかは、そのリスクを負って人に語り掛けるのがブログの面白さだし、だからこそ説得力が生まれると思っているのですが、「煽り」が好きな人は、それは困るのかもしれません。


「煽り」に徹することのメリットとデメリットについて

主張したいことはある。しかし責任や、訂正のリスクを負いたくない。だから「自分がそう思ったからそういっただけだもん」というところからは絶対に出てこない。これが「煽り」というものだと思う。

それはそれで一つの選択かもしれません。



「責任」をとらない書き方に徹することで、リスクはせいぜい「意見が合わないやつ」から叩かれるだけにとどまります。 そうすれば、過激な主張やずさんな記事もやり放題。チェックも不要だから記事を量産しまくれます。これは、とにかく時間をかけずに記事を量産していく上で、必要な適応だったのかもしれません。


一方、デメリットもあります。「根拠」はむしろ書いてはいけない。そういう制約があると、一つ一つの記事の内容は薄くしか作れません。 本来記事にとって一番重要なところを書いてはいけないわけですから。それでも読者を得るためには、味付けを濃くするために、タイトルをどんどん過激にしていかざるを得ないでしょう。主張に対して根拠が書けないということは、どうしても話が投げっぱなしにならざるを得ない。そういう文章を書き続けていれば、「検索エンジン」には好かれるかもしれないけれど、もはやまともに主張を読んでくれる人はいなくなるでしょう。


このあたりは良し悪しというより選択の問題なのだと思います。



私は別に「啓発」が「煽り」より必ずしも良いとは思いません。話題によっては押しつけがましくてうっとうしいなと感じることもありますし、興味のない話題なら「煽り」くらいの薄い感じのほうが良いと感じる時もある。

でも、たまには「煽り」ブロガーが「煽り」ではないまじめな「啓発」記事を書いてるところが読んでみたいなとも思います。


*1:余談ですが、私は文章とその人の人格はある程度切り離す主義です。「文章が頭悪い」のと「その人が頭悪い」のは微妙に違うと思ってます。なので、イケダハヤトさんの文章は頭悪いと思ってますが、本人が頭悪いかどうかはわかりません