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「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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「サバイバー(生存バイアス)」→「メリトクラシー信奉」→「ハラッシーハラッサー」

正直、この記事は他人に説明するつもりで書いてないので読まないほうが良いと思います。(自分の中ではこの件に関する問題意識は割と強めです)。

なぜ人は、少し成功すると自分がもといた立場にいる人間を蔑むようになるのか

http://megalodon.jp/2016-0808-1601-03/ameblo.jp/akky-0829/entry-12188216276.html

http://web.archive.org/web/20160811044524/http://www.tm2501.com/entry/aonisai-vs-ikehaya_children

言い方の差こそあれどこの二つの記事は同じメンタリティで書かれてる。こういうのは放置しておくと「無自覚なハラスメント」につながるので個人的にはとても危惧している。


この記事が非常にわかりやすく説明してくれている。

社会の底辺から階層を上ると、努力しない底辺が許せなくなる - トイアンナのぐだぐだ

私ははっきりと自分がいた世界を軽蔑するのを感じた。南スーダンへは寄付できるけど、こいつらは助けたくない。だって、努力せず底辺にいるこいつらなんて許せない。

もしあなたが、自分の運命は努力で変えられると思うなら、その感覚は生存者バイアスの始まりである。自分の人生はある程度変えられる。けれど結果にはいつも、周囲の人や運が必要で、それを持っていない人もたくさんいる

バイバーは「生存バイアス」と強く結びついてハラスメント加害者になりがち

上の2つの記事は、気持ちはわかるが「井の中の蛙」感が強い。もっと悪い言い方をすれば「肉屋を支持する豚」だ。

「努力した結果ちょっと報われた。そのことを認めてもらいたい。自分より下の奴と一緒にされたくない。」そういう形で承認欲求が発動すると、自覚なく「本来自分を苦しめていたであろう世界」を肯定する形で「自分より弱い立場の人間をさげすむ」行動になってしまう。これはもう仕方がない。生きるのに、自分の居場所を確保するために必死なのだから。世界にはみんなの需要を満たせるだけの居場所の数は足りていないと感じており、誰かを蹴落とさなければ居場所は奪われ、安定した居場所を持たない人間は虐げられると恐れているのだ。「自分はもう弱い立場の人間ではない」という安心感が欲しい。それでも虐げられる立場になるのが怖い。だから自分が居場所を持っているのは正当な理由があるという保証がほしい。 その際に、最も手っ取り早い方法として「弱い立場だった自分と同じ種類の人間を強く否定する」という選択肢に走る人は、一番余裕がなくておびえている人たちなのだ。 

この感情は、「もともと居場所が当たり前に与えられていた人」「居場所を得るのに苦労しなかったり」「自分や他人のために自ら動いて居場所を作り出せる人」にはわからない感覚だと思う。


こういう言動をする人たちの特徴として、一度きりではないということが挙げられる。何か大きな変化がない限り、エンドレスに、自分より下の立場の人間を見つけて攻撃し続ける人が多い。ほかならぬ私もそうだ。前向きなことを書こうとしても、何かしら不安に駆られるとすぐにこういう安易な手段に逃げようとする。何かしら別の形で安心を得ることがとても大事なのだ。


安心や自分の居場所の正当性を求める人がたどり着くのが「メリトクラシー信奉」という名の「精神論」

内田樹の研究室 2006: 階層化=大衆社会の到来

メリトクラシーというのは、努力するものに報いる制度である。それは「誰でもその気になれば努力することができる」ということを前提としている。

しかし、「その気になれば」というところに落とし穴がある。というのは、世の中には、「その気になれる人間」と「その気になれない人間」がおり、この差異は個人の資質というよりも、社会的条件(階層差)に深くリンクしているからである。

「どれだけがんばるかを、個人の自由意志の問題とみなすかぎり、その背後に社会階層の影響があることに目は向きにくい。(・・・)努力=平等主義を基調とする日本型メリトクラシーにおいて、メリトクラシーの信奉は、能力の階層差を隠すにとどまらない。それは努力の階層差をも隠すことにより、教育達成の不平等を二重に隠蔽するイデオロギーとして機能するのである。」

体罰とブレークスルーについて (内田樹の研究室)

体罰をする指導者は全員が「メリトクラシー」の信奉者です。努力したものは報償を受け、努力を怠ったものは罰を受けるべきだという考え方のことです。彼らが暴力の行使を正当化するときの言い分はだいたい同じです
「これほど資質に恵まれていながら、努力を怠ることが許せない。もともと才能がないなら、叱りはしない」と。この主張の前提にあるのは、身体能力には人によって生得的な差があるが、「努力する能力」には差がないという信憑です。全員が等しく「努力する能力」を分有している。なのに、こいつはそれを出し惜しんでいる。能力がないことは咎めないが、能力の開発を自分で抑制している人間は罰を受けなければならない。そういうロジックです。でも、実際にはその前提が間違っている。

参考までにいうと上の記事をどや顔で語ってる二人のうちの一人はやっぱり体罰の肯定者です



そしてメリトクラシー思想が「ハラッシーハラッサー」(肉屋を支持する豚)を生み出す

上で述べたように、「ハラスメント」や抑圧を受け続けると、そこから脱出しても自由になれない。

「ハラスメントの被害者」であった彼ら彼女らは


「ハラスメントの加害者」になってしまっているのだ。「ハラッシーハラッサー」という形で他の人にハラスメント的言動を繰り返すようになってしまう。

これが本当に恐ろしい。「つらい目にあった人はつらい目にあっている人の心がわかる」という。半分しか正しくない。「自分とあいつらを一緒にするな」という気持ちのほうが強くなることは少なくないのだ。


権利を果たしたら認めて「あげる」という考えは危うい - お前のことが好きやったんや

・「義務を果たさずして権利を主張する奴は許せない。不公正である。不公正であるから叩いて良い」(権利と義務についての根本的な理解の謝り)

・社会の問題と個人の問題を区別できない。構造的問題と個人の問題が区別できない。事故や不運と自己責任の区別がつかない。他人のことはすべて自己責任だろ?自分のことはなんもかんも政治や会社が悪いけど。(自己責任教

・自分が同情・共感できるかどうかが大事であって、事実とかどうでもいい。同情できない人はたとえ正しかったとしても、本来論じるべき論点も理解できてないけどとりあえず叩いとく(「言いたいことはわかるがお前のことが気に入らない」)

・よりかわいそうな人がいたら、相対的に恵まれている人は我慢スべきだ(「アフリカの子供がー」「宇宙野壮大さと比べれば」論法)

・私の正義感や好奇心、完全勝利を満たすために、犠牲はつきものである。そもそも他人だからどうでもいい(バズワードでいうところの「正義の人」)

上の二人ほどわかりやすくはないが、これらの要素を持っている人は少なくないだろう。上の二人のようにそれをそのまんま表に出すほどバカではないだけだ。

安心したいがために「自分より下の立場にいるやつは努力してないんだ」と思いたがるのはもう社会に刷り込まれた生存本能のようなものである。そこから自由になることは困難だ。こういう考えを持ってしまうことは仕方ないと認めつつ、それでもそういう発言をする人間を許容しないように、この考え方をできるだけ再生産しないようにしなければいけない。




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