何回か同じことは書いてきたけど、何回書いても自分の中でしっくりくる落とし所が見いだせない話です。
詐欺師でなくても
優秀な詐欺師は「話の殆どは事実だが、その中に少しだけ致命的な嘘を混ぜる」という話はよく聞きますよね。詐欺師は意図的にこれをやるわけですが、別に詐欺師で無くても、生半可な理解で物事を語ると、「それっぽいが間違ってる話」「なんとなく正しく聞こえるがよくよく考えると間違ってる話」になります。そして、それをいちいち判別するのは難しい。
だから、少なくともじっくり時間をかけて考えられること以外については「何を言っているかの前に誰が言ってるかが大事」なのです。(まぁ、よく考えない人であればあるほどその信じるべき「誰が」の部分で間違った人物を引いてしまうわけですが。
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さて、某記事についてこんな感想を延べている人がいました。
「性犯罪を助長する」は言い過ぎにしても、悪趣味であるとして批判されるのは当然なレベルだ
こういう発言見ると私は「じゃあ言い過ぎだし間違いなんだから性犯罪を助長するの部分を取り消した上でお題を立て直そうぜ」って思うんですよね。「批判されるのは当然」だからこそ、批判は正確にやるべきじゃないんかね。
こういう「批判されてる」かどうか「肯定されてる」かどうかだけで考える○☓思考が私は昔から気持ち悪くて仕方ない。○か☓だけで考えてる人って「言い過ぎ」とか「明らかに表現として不適切」みたいなのがいかに問題であるかを軽く考えすぎだと思います。 そういう人は、多数決の時にだけ出てきてくれたらいいから普段は発言しないで欲しいとさえ思う。
この人に限らず、細かい部分をすっ飛ばして○か☓を判定しようとした結果、すごい無理矢理な意見が出てくること有りますよね。
最近教育勅語で稲田さんが繰り返し主張していた「正しいことも言っている」「いいこと言ってる部分を評価しろ」っていう発言がさんざん問題になってました。この意見がどれだけ馬鹿げているかは殆どの人はわかると思います。ところが、ネット記事ではこれと同じような発言について、それにたいしておかしいと思われずに受け入れられてることが結構多いと思う。
それに対してツッコみを入れると「正しいことも言ってるだろ」という部分ですでに受け入れてしまってる人が、「正しい意見を批判するのか」と見当違いなところで衝突を起こす。
こういうのって、最初から「言い過ぎ」がなければこういう不毛なことに成りません。最初から「正しいこともある」なんて言い分を認めず、間違った発言を取り除いて議論をやり直せばズレたところで争いは起きないわけです。部分的に正しいが「全体」が間違っている意見というのは、完全に間違ってる意見よりたちが悪い。
もちろん「部分的に正しいが全体として間違っている主張」をしてしまうことは誰にでもあります。それをしてしまうこと自体はそんなに問題じゃない。そういう主張をしていた時に、それを指摘されて意固地になるような人とか、そういう意見をベースとして議論を始める人がアカンという話です。
こういう意見を元にいくら話をしても、もとが悪いんだから、その元を正さない限り有意義な結論にたどり着くことはない。だからこそ「元」には気をつけて欲しいと思う。記事タイトルで行き過ぎた表現を使ったり、不正確な表現使う人ってその時点でもうなんかすきになれない。
事実に基づいた経営―なぜ「当たり前」ができないのか? | ||||
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著者は、6つの常識を挙げ、これらは「半分だけ正しい」という。「半分だけ正しい」とは、物事にはプラスの面とマイナスの面があるという単純な事実である。しかし、実際に組織で行われていることは、プラスの面だけを見て「全部正しい」と思い込んだ常識を実行してしまうことである。
殆どの物事には「正しい」部分はある。正しいところだけ見てそれを主張するのは、事実を捻じ曲げる悪質な行為であると思う。別にいちいち書く必要はないけど何か正しいことがあるときは、マイナスの面もちゃんと考慮して欲しい。
特にアフィリエイトは「プラスの話」をする方向にインセンティブがかかってるから、なおさら自制が求められる。アフィで儲けるのが悪いとは言わないよ。でもアフィやりたいならなおさら「プラス」の面しか言わないようなゴミ記事を量産しないでほしい。それが出来てない人が多いから嫌だ。いつまでも今みたいなことやってるなら規制されてまたアングラに帰れ、って話になってほしいし「私は紹介してるだけで読者の自己責任だ」なんて意識でやってるならアフィリエイトは悪い文明なので滅びて欲しい。