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西尾維新の「戯言シリーズ」の面白さについて

最近になって「戯言シリーズ」がアニメ化されたOVAを観て面白かったので、2012年の記事ですが再掲します。

なぜ一人ひとりのサブキャラにいたるまでやたらと情報をびっしり持っているのか。その設定はどの段階で作られているのか

クビキリサイクルは、単なる探偵推理物語としては「情報が過剰」すぎるという特徴がある。 哀川さんが主人公あるいはメインであるなら、これほどの情報はイラない。

サイコロジカルまでは探偵物のベースがあるが、それ以降は「空の境界」などの殺し屋たちの競演的な話に「路線変更」しているように見える。しかし、本当にそうだろうか? 零崎さんや闇口さんなどは賑やかし的なキャラでメインキャラのストーリーに深くかかわらないように見えるが、これはどういう意味があるのか?とにかくサブキャラ一人ひとりまで設定が作りこまれすぎなのである。戯言ディクショナリになると零崎は「主人公の鏡写し(IFの存在の提示)」以上の意味はなく登場させたもので、必ずしも再登場の必要を予定していたわけではなかった。それでもどんどん設定が膨らんでいく。これはどういうことか。

どのキャラも「作者がその気になればそれをメインに語りうる」だけのキャラであるが、それを語るかどうかは作者の思いつき次第、という作者の恣意性を露骨に見える。「作者自身が」続編番外編作り放題。二次創作し放題という構造である。 これは東方などにも当てはまる。作者自身は「読んだら終わりの読者」と「物語終わっても日常が終わらない物語内人物」との差を意識している。

登場人物を作り込んで、同じく作りこんだ世界に一緒に放り込んだら、いろんなことが起こりうる。 その中でたまたま起こった出来事を描写しているだけ、という作り方なのだ。なんだかフォークナー的である。

西尾維新の原点としての戯言シリーズの作り方(ボトムアップ・アプローチ)と「零崎シリーズ」や「化物語シリーズ」の作り方(トップダウン・アプローチ)

戯言シリーズは、自分で作った言葉遊びとか、作った設定や世界(まさに戯言的世界)から「ボトムアップ的に」「即興的に」物語が組み上がっていく。設定がどれだけ多くても物語に深みが増すというわけではないが、とにかく物語は出来る。カオスなものができる。一方の零崎シリーズや化物語シリーズは、トップダウン的に作られている。零崎シリーズは零崎の物語としてフォーカスして抽出しているから「伝記」として読みやすいものになる。

戯言シリーズは、<化物語阿良々木暦八九寺真宵の会話>がベースのようである、と。突飛なキャラや厨二病的な設定戯言を積み重ねていくカオスのうちから即興的に生み出される物語としてみると良いのだ。 これはなんだかブロンテ三姉妹やメアリ・シェリーのような創作手法ではないだろうか。ニコ東方とかニコマスと同じようなカオスの楽しみがある。東方やニコマスは最低限のキャラ設定などの「制約」があることで素人でもいろんなモノを共有しながら自由に楽しめる面がある。真に創作力ある人が、制約なしで延々カオス状態を楽しむとどんな作品が出来るかを示したものが「戯言」シリーズと言える。

「戯言」が聞かないネコソギラジカルのノイズさん、みたいな設定って子供同志のごっこ遊びである「~攻撃」「~バリア」みたいなたわいない戯言遊びの発展型ですよね。子供の「常識にとらわれない」ごっこ遊びを、ガチのプロ作家が洗練させた形で楽しんでいるのが戯言シリーズの想像力なのかもしれない。

西尾維新さんは、子供たちと違って、「物語の定石」をよくよく理解した上で、言葉遊びなどをしながら意図的にそれを崩す手法をとっているが、ベースにあるのはこの戯言シリーズのような、制約抜きの言葉遊びなのかもしれない。定石を知り尽くしながら、想像力を制約されないで描く、は作家としての理想であり、そういう観点から再度西尾維新の出発点である戯言シリーズを観てみると面白いかもしれない。