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発達障害

なぜ発達障害者はやたらと「疲れやすい」のか  「セントラルコヒーレンス」「アレキシサイミア」について

発達障害を「本人が努力すれば治る」と思っている人間があまりにも多い…この現実や偏見に様々な意見 - Togetterまとめ

読みました。こういう話はとてもよくわかるのですが、発達障害者として30年以上生きてきて、理解や配慮を求めるのは日本ではとても難しく、また最近ますます難しくなってきているなと思います。

発達障害は、例えばADHD一つとっても「脳内の神経伝達物質の量が健常者よりも少ない」という明確な原因が存在するので、概念とかそういった抽象的なものでは全くない、ただ本人の障害の度合いや周囲の環境によってそれが大きな障害にもなりえるし、本人の努力でカバーできるレベルの障害にもなりえるし、特段大きな支障もなく過ごせる場合もある、この不確定要素のせいで理解を進めることが難しい

「マジョリティの何倍も努力してようやく適応出来るかどうか」という人間をどう評価するか、という問題です。

大抵の場合一般的な反応としては

・頑張ってないからもっと頑張れと言う
・頑張ってこの程度なのだから、まともな仕事はやらせず楽な仕事を低収入でやってもらう

にわかれがちですが、、、

この扱いが辛いのは間違いない。そして「発達障害のこと理解してない」「違う、そうじゃない」という不満を述べるのは簡単ですし、「私のことをもっと理解して、私にとって最適な扱いをあなたの自己責任でしてください」といいたくなるのもわかる。でも家族や夫婦じゃないんだからそこまで求めるのは無理があると思います。というか夫婦であっても要求しすぎだと思う。

なので、「こうして欲しい」という話は、本来であればこちらから伝えていかないと普通の人が困るでしょう。私が望むのは「発達障害者です」ということを言っても門前払いをされず、「こういう風に扱ってもらえればあなたたちの役に立てます」という話をオープンにできるような社会であって、察して良きに計らえというべきではないと思う。

まあ正直言ってまだまだ難しいなと感じますが


なぜ発達障害者はやたらと「疲れやすい」のか

発達障害についてはもういろいろ書いてるし、私より詳しく書いている人がたくさんいるのでここで改めては書きません。是非過去記事を読んでいただければと思います。

発達障害 カテゴリーの記事一覧 - この夜が明けるまであと百万の祈り
双極性障害 カテゴリーの記事一覧 - この夜が明けるまであと百万の祈り

せっかくなので一つだけ書いておくと、「セントラルコヒーレンス」「アレキシサイミア」の概念を知っておいてもらえると少しは役に立つかと思います。

①首尾一貫性の欠如

②早合点、誤読の多発

③常人より大きなマトのハズレ具合

④他者への気遣いのなさやズレ

⑤情報の選択における消耗しやすさ


発達障害者はこのように、人に相手の気持に自分が反応ていることを伝えようとする考え方、行動言動が乏しいため、誤解を招きやすい。

ただでさえ、無意識ではこうしたことが出来にくい特性があり、意識下で必死に論理思考で読んでいる当事者さんは
「気持ちを汲んでくれない」とばかり言われるので、「もっと、相手の気持ちを正確に読み取らなければ」と過剰適応に走っている。

つまり、普通の人があまり意識しないところで異常にエネルギーを使っているので、普通の人からしたら無駄に消耗しまくっているのです。

とりあえず、この2点を理解してもらえれば、「悪気はない」し「すでにギリギリまで努力してる」という2点だけは理解してもらえると思う


とは言って、評価基準が変わらない限り普通の人は理解すればするほど「努力してもそうなら、一切発達障害者とは関わりたくないな」「自分の職場にいてほしくないな」「なんでこいつらのために自分たちが合わせなければいけないのか」と思うはずなんですよね。 「多様性」をプラスに結び付けられる会社や環境なんてそうそうありません。大抵の環境においてはただの厄介者としてしか扱えないでしょう。

だから、私は発達障害者そのものを普通の人に理解し、受け入れてもらうというのは、今の日本では絶望的だと思っており、もうそちらの方向に期待するのはやめました。頑張ってる人には申し訳ないですけどね。私たちは「発達障害者ではあるけれど、自分はこういう形で周りのみんなの役に立てること」を示していくしかない。結局それは他の人と変わらない。 ただ、普通の人が使える手段が使えないと言うだけで、それほど悲観することではない……はず、と私自身は考えています。











以下はおまけです。私が日本における発達障害者の扱いをどう見ているか、という話ですが、あくまで私の観測範囲からみた話なので、参考程度にしてください。

職場に、正確な情報を伝えること無く配慮を求めると「聲の形」状態になってしまうと思っている。私はそれをあまり望まない

発達障害」と一言で言っても、軽度のものから重度のものまであり、さらに、双極性障害を併発してる人とそうでない人でまた大きな違いがあります。一人ひとりばらばらの症状を理解して対応していくのは大変に手間です。会社でよく「提供した価値の分だけお金は入ってくる」というキレイゴトを述べる人がいますが、これは、会社においては人間は、自分が提供する価値以上に尊重されないのが当たり前という価値観です。提供する価値が低くても許されるのは、成長余地がある新人の間だけです。この価値観にそうならば、発達障害屋は大抵の場合、提供する価値よりも多くのコストを周りに要求することになり、会社の普通の価値観を侵害することになります。この時点ですでに嫌われやすいです。


また、普通の人は「周りの人とうまくやっていくために大変な努力をしている」状態であり、ただでさえ足を引っ張っている発達障害者だけに特別な扱いをすることは「公正ではない」と考える傾向が強いはずです。また、どこかで明確な線引を行い対応を変えるということをする場合、発達障害として認定を受けないまでも、軽度の発達障害の徴候がある人と、障害者と認められて配慮される人と、障害者と認められず普通の人と同じ努力を求められるひととの間に不公平感が生じます。


何らかのアファーマティブ・アクションが必要なのは間違いないのですが、一方で、発達障害への理解が十分に進まない中、普通の人たちの感情を無視して、配慮だけを求め続けると「聲の形」で西宮硝子と植野さんたちのような形で、普通の人と発達障害者の間に大きく溝が出来てしまうでしょう。「聲の形」では深刻ないじめが発生していましたが、大人たちのセカイではああいう目に見える形でのいじめは起きない代わりに露骨な溝が出来てしまいます。はっきりいって、めちゃくちゃ居心地悪くなるので、お互いにとって不幸な感じになるでしょう。


いちどでもそういう状況を体験してしまうと、自分が発達障害者であることを伝えて配慮してもらうより、ちょっと変わったやつだがちゃんと周りに価値を提供できるやつだと受け入れてもらうまでは、絶対に発達障害のことは言えないな、と考えるようになりました


発達障害自体は、まだまだ「個性」や「特徴」としてではなく露骨に「厄介もの」として扱われるのが現実

発達障害自体は、まだまだ「個性」や「特徴」としてではなく露骨に「厄介もの」として扱われるのが現実ですし、そして、今後ますます普通の職場では「厄介者」として扱われていくことに成ると思います

昔は「ミドルマネジメント層」の優秀さで評価されてきた日本ですが、現在ではまさにこの「ミドルマネジメント」層が最も弱くなっています。ほとんど上意下達とノルマ管理ですでに忙殺されている中間管理職の人たちが、現場で「発達障害者」に対応することは能力的にも権限的にも困難であると思います。それができる人はよほど優秀なひとでしょうが、それを一般的に期待するのは難しい。

実は法律で会社単位できっちり発達障害者の受け入れを行うよう義務化されていますし、発達障害者雇用開発助成金も設定されています。ただ、実際はこの法律は例によって「補助金ゴロ」に活用されているケースが少なからずありますし、このルートで就職しようとすると、極端に就職の口が狭まります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/発達障害者支援法

企業の障害者法定雇用率、2.3パーセントに引き上げへー発達障害・精神障害者の雇用機会は広がるか | LITALICO(りたりこ)発達ナビ

特定求職者雇用開発助成金(発達障害者・難治性疾患患者雇用開発コース) |厚生労働省

LITALICOの売上に対する人件費比を確認してみた結果45%でした - この夜が明けるまであと百万の祈り


そもそも学校教育に象徴される国家全体が、「発達障害者」に対して忌避感を持っていることを強く感じます。

発達障害者への対応」をきちんと打ち出している学校は殆どありません。

関西で、発達障害者に誠実に対応している立派な学校も知っていますが、その学校ですら対外的には「うちにはそういう生徒はいません」ということにしたがります。

保護者が「発達障害者がいるようなクラスに自分の子を入れたくない」と言うケースが実際にあったからだそうです。

ただでさえ過労で崩壊寸前の現場に、発達障害者がいると、対応コストが膨大に膨れ上がってしまうからです。

安倍さんの教育改革によって「望ましい人間像」みたいなのが学校に強制されるようになれば、学校評価の面からも「発達障害者」がいることが忌避されるようになるでしょう。
ますます発達障害者は肩身の狭い事になるでしょう。
発達障害者は出て行け」「一般の学校とは別のところで面倒を見てくれ」という動きが強くなっていくことになると思われます。


生徒ですらこれなので、教師自身には「発達障害者の傾向が見られる」と少しでもみられれば就職口はまずありません。

連日報道されるような「やばい」教師を教育現場にいて許容しているくせに、そういう学校ですら「発達障害のケがある教師」はお断りなわけです

教育の現場で発達障害者が差別(といってよいかわかりませんが、露骨な冷遇はされています)を受けている状況で、なかなか将来を期待することは難しいです。

ネットでは様々な情報発信がされていますがどれほどリアルに影響を与えられているだろうか

私ははっきりいってこの点に置いて、言い方は悪いですが「個々の当事者たちのオ●ニー」程度の意味しか感じていません。

だから、記録的に記事を書いてはいますが、あまり積極的になれません。はっきりいってもうすでに心が折れてます。

フェミニストではないですが発達障害も「一人一派」のようなものであり、こういう対応をすればよい、という教科書的な答えがない状態です。
なので、本来であれば、発達障害者は「自分の扱い方は、自分で周囲に伝えなければいけない」というのはわかっています。
しかし、その努力がまた非常に困難であるなと思います。

そもそも「他人からどう見えているか」を把握することが難しいというのがこの発達障害です。
それができるなら最初から問題が起きないように振る舞えるやろ!というわけで、
どうしても、「察し」能力の高い他の人達に配慮を求めざるを得ないのが現状です。

また、だいたいの人が「積極的に振る舞うと、空気の読めない馬鹿扱いとか迷惑扱いされる」ことを繰り返す人生を送っています
なので、どうしても、よほど才能があって周囲から認められている人を除いては
「引きこもり」あるいは「受け身」「事後対応的」に振る舞うよう自分を教育していることが多い。
自分のことを周りに伝えるのは怖くて仕方ないので、自分から周囲に壁を作ってしまう。


なので、まぁ、マジレスすると、ネットに活路を見出すしか無いとは思います。
私は考え方が古い人間なので、まだリアルで頑張ろうと思ってる方ですが、
別に無理せずネットで知り合いを作ってネットで生計を建てられるなら、そっちで頑張ればいいんじゃないかなと。




まとめ

他の当事者がどう考えているかは知りませんし押し付けるつもりもありませんが、私個人の考えを書いておきます。

普通の人が使える「みんなと同じだから仲良くしてね」というアプローチは発達障害者には無理。短期間はともかく長期的には体力が保たない。こういう要素しか求められてないような「コミュ力重視」「低技能しか求められない職場」では発達障害者は死ぬしか無い。
なので、なにかしら自分の価値をアピールできるように普段から鍛えるしか無い。みんなと仲良くというファジーな要素はすっぱり諦めて、実力を付けて認められるようにしよう。それまでは、当事者同士で励まし合ったり傷の舐め合いをしながら生きていくしか無いが、制限時間は限られているので、あまりそっちにうつつを抜かさずスキルアップしっかりやっていこう。

『発達障害35歳限界説』とは? : 凹凸ちゃんねる 発達障害・生きにくい人のまとめ

普通の人が当たり前に享受している何かを意識的に諦めて、何かに特化して努力し、そして時間制限が来る前に最低限生き延びられる地点まで到達する覚悟が必要だと思う。
これは別に悪いことばかりではないと、私は思ってる。 最初から向いてないものがわかってるわけだから。 




蛇足ですが。
発達障害(自閉寄り)のイメージをつかみたければ、「少女不十分」をおすすめします。
この少女の壊れ具合は虐待によるものであり、またここまで極端に壊れているケースは稀ですが、イメージを掴むにはよいでしょう。

発達障害には先天的な要素もありますが、一度「そういう」扱いを受けるようになると
よほど幸運な出会いや環境にない限り、だんだんと最初の「特徴」「傾向」がさらに強化されていきます。
二次的三次的な障害とかについて語りだすともうキリがないですね。