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「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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震災の時に「折り鶴」話で盛り上がるネットを見て、自分の危機感のなさを省みる

折り鶴は迷惑だからやめましょうみたいな話はもう5000兆回くらいされてる気がする。自分でも2年前にこういう記事書いてたらしい。へー折り鶴の起源ってそうだったのか。自分で書いたのにすっかり忘れてた。

遠くの地にいる人に対しては、その悲惨さとかがよくわからないから「平和を祈る」みたいな漠然とした気持ちになる。そういう気持ちを表現するための手段として「千羽鶴」くらいしか知らない、教えられてない人が多いんじゃないかなと。とにかく「千羽鶴を送りたがる奴はバカ」で切り捨てるだけじゃなくて、分かった上でそれでも千羽鶴を送りたいと思う人達の気持ちをある程度聞いた上で、それでもやめようって話をしないといつまでも同じ話の蒸し返しに成るんじゃないかなあ。

というわけで、私は未だに千羽鶴を送りたがる人もどうかと思うけど、その行為について決まった形の批判をするしか能がない人たちも同じくらい馬鹿だと思ってます。そんなことよりtwitterは折り鶴という言葉を1ツイートするたびにユーザーから0.1円ずつ徴収して自動的に募金するシステムを作るといいと思います(適当)


というわけで、そっちの話はどうでもよくて、この件について自分が考えたのは3点。

(1)「災害が起きてから」「個々人がバラバラに」「できること」の中から支援を考えることの効率の悪さは異常だということ。

(2)実際にことが起きない限り対策を考えることすら許されない(無駄として排除する)ことと、その反動としてのヒステリー現象は裏表だということ。

(3)自分はこういう状態を理解した上で、この(1)や(2)の流れに巻き込まれないようにしたいということ

このあたりについて、簡単に考えてみる。といっても今まで全くこの当たりについて考えていなかったので「普段からもっとちゃんと考えないといけませんね」「今後考えていきます」みたいな漠然とした話しかできません。

「震災時の体育館くらしは当たり前じゃないどころか難民生活以下」と言われ、私がこの点について考えないようにしていたことを自覚した


かなり頭をガツンとやられる記事だった。当たり前だがイタリアと日本では状況が違うので単純比較するのは良くない。ただし「災害が起きた時に、被災者が最低レベルの生活を保証されるような準備」は考えられているべきであり、そして、今現在それがあまりにも不十分というかほとんどゼロに近いということは間違いなかった。 お恥ずかしながら、「災害時の体育館暮らしは当たり前のことであり、仕方がないことだ」と思っていたので、「いや、全然当たり前じゃないよ」って言われただけでもびっくりしてしまった。私はこの件について、今まで「どう有るべきか」なんてことは考えたこともなかったのだ。「その時が来たら劣悪な環境に耐えるしか無い」と、「諦め」みたいな感情しかなかった。ただ、本当にそれでいいのだろうか、と考えさせられた。

普段から諦めてしまっていると、準備も対策も、現状の改善も何も出来ない。

私は、「震災が起きた時の状況があまりにも悲惨すぎる」から考えるのが怖くて、考えたり議論することを頭から諦めてしまっていた。諦めてしまっているから、実際にその時がくるまで、そのことを考えないようにしていた。そうやってひたすら考えないようにしていたから、自分が住んでいる場所の近くの岡山や中国地方が悲惨な状況になってもそれを自分ごとと考えなかった。ただ、「他人事」「遠い場所」の出来事だと思ってぼんやり見ているだけだった。「自分のところでなくてよかった」みたいなマヌケなことを考えていたかもしれない。あかん。完全に感覚が麻痺している。「自分ごと」として考えることを徹底的に拒否している。「もし自分が豪雨や震災の被害にあったら」を考えることから逃げ回っている。

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自分が被災者になったときのことを想像することを拒否して、ひたすら「支援する時の振る舞い」みたいなことを考えている。これってよく考えたら変な話だ。無意識にそのことを考えることを避けているだけで、本当は怖い。自分が被災者側だったら、と考えると本当に恐ろしい。だからそのことから意識をそらしてくれるものを一生懸命求めているのだ。今から考えると、「折り鶴を折る人」も、それを批判している人も、どちらも「自分は支援する側の人間だ」と思い込もうとしているかのようだ。「考えることを避ける」ことで心の安定を得ようとすると、手っ取り早く「支援ぽいこと」しよう、という思考になる。そういう人が「千羽鶴」のようにお手軽なものに飛びつくのだろう。

「震災時の折り鶴」は不測の事態における思考停止した「個」の群れがどれだけ生産性が低いかという話なのだと思う

・普段から潜在的リスクについて、準備しておくべきことを否定する。

・ネガティブなことやリスクについて考えることを許さない。常にベストの状態を想定し、いろんなものを無駄として切り捨てる。

・バッファを切り捨てることが正義という価値観で他人を監視し、多様性を徹底的に否定し、一つの方向性に統一したがる。

・そして、いざリスク事象が起きても「まだ他人事」として考え、自分ごととして考えることを拒否する。むしろ考えることを避けるために「意味のないこと」に没頭する。

・普段から考えてない、考える訓練をしていないし、組織化もしていない。むしろ普段は徹底的にその2つを排除しているから、いざ致命的な事象が発生し、アクションが求められても組織的な行動はできない。

その結果、集団で力を合わせて乗り切るべき時において、「個々人がバラバラに、自分ができることの範囲で」何かをやろうとするという最悪の行動が導かれる。結果として個人レベルの質の低いアウトプットしか出てこないし、それにすぐみんなが群がって地獄に邁進する。(折り鶴はあくまで一例に過ぎない)

・有効な手を導けない「バラバラの個」は、自分たちの考えの無力さによって心が折れ、ますます自分で考えることを放棄し、「バラバラのままで」「正義や強いリーダー」を求めるようになり以下略(ヒステリー現象)

こんな感じだろうか。また他人事のように語っているが、まさにこの「思考停止して、バラバラの個状態で、ふわふわ漂っている」のが今の私である。やばいなぁと思う。

なぜこういうことを思ったかというと、私は少なくとも、とあることについては自分で危機感を持って、自分で考えて、自分で行動してきたからだ。つまり、自分が危機感を持っている状態とそうでない状態の違いだけはわかるからだ。というわけで、ここから特に必要のない自分語りをちょっとする。私はいわゆるワーキングプアだ。小学校の頃から対人関係がうまく行かず、勉強くらいしか取り柄がなかった私は、必死に勉強していわゆる「いい大学」に行った。しかし最初こそ学歴パスを使っていい企業に就職したけれど、障害のせいでフルタイムの勤務が厳しく、休みがちになったり、職場での人間関係が維持できず孤立し、心を病んで退職した。自分でスキルをつける努力をサボったこともあり、その後どんどんズルズルと環境が悪化していった。今の私は主任職だが、それにも関わらず最初に就職した会社の初任給より手取り額が低い。しかし、私は年収が自分より200万か300万多い程度の人間と比べるなら、たいていの場合資産額は勝っていると思う。それは、低収入だからこそ「経済が崩壊した時のことを考えてなんとかしなければ、オリンピック後に確実に孤独死する」という危機感を強く持ってひたすらコツコツ取り組んできたからだ。本当は「仕事で頑張れる人」になりたかった。でも、なれなかったし、そっち方向では正直努力も全然足りなかった。だからこそ、別のところで頑張らなければ本当に死ぬと思ってた。最初こそ、アフィリエイトやってるブログが大げさに語る「トレードで大儲け」みたいなのに憧れて「ゲーム株相場」「そーせい」相場のときははしゃぎまわっていたが、その後あっけなく夢破れて資産を失った。それから先は徹底的に地味に資産防衛の生活だった。勝負銘柄は2つか3つに絞り、それ以外は割安株投資、配当利回り重視に徹する。生活費をできるだけ切り詰め、毎月コツコツ株を買い、配当や優待を使って日々の支出を減らし、浮いたお金をさらに再投資する、という形でちょっとずつお金を増やしていった。趣味はお金のかからないマンガやアニメ、ネットサーフィン、あとは株式投資と優待の食べ歩きだけ。もう30も半ばだけれど未だにそんな感じ。我ながら、くっそつまらない人生だし、くっそつまらない人間だと思う。毎日が無味乾燥な生活だった。つまらない人間のくせに、一応この世の中に自分が存在することを知ってほしくて毎日ブログを書き続けてた。約4年間で1500記事(FC2ブログ、増田を含めれば約12年間で5000記事)書いてきた。5000記事書いて読者数が600しかいないブログってどんだけ文章書く才能ないんだよって感じだけど、実際私はどうしようもなくつまらない人間だからしょうがない。そんな私のブログも読んでくれている人がいて本当に嬉しい。それでも「どうせ子孫を残さず35歳くらいで死ぬ」という気持ちと「病気で死ぬのはともかく貧困が原因で死ぬのだけは嫌だ」という気持ちでなんとか生きてきた。あと、私はネットでひたすら泣き言を言ってかまってちゃんをやってる人間と、他人の迷惑を考えずに互助会やアフィカスやPV乞食をやってる人間が死ぬほど嫌いだったので、そいつらとおなじになるのだけは絶対に避けたかった。というか、目標が無いと本当に「なんで自分は生きてるんだろう」とか余計なこと考えてしまうのでひたすら現実逃避のために現実のお金を増やすというゲームに没頭してきた。最近、ようやく心の余裕が出来て、2年前からは株クラスタで友達も出来た。本当に10年ぶりくらいに、生きていてちょっと楽しい。でもそれまではひたすらずっと危機感にせっつかれ、余裕なんて全くない状態でなんとか生きてるって感じだった。でも私のような人間には、そのくらい危機感がなければ、すべてを諦めて、すべてを他人事のように考えてやり過ごして、そして次のリーマン級の経済ショックが来た時にのたれ死んでいたと思う。そんなわけで、私は「危機感を持っている状態の私」のことを知っている。それ以外の状態の私はすべてに置いて諦めていて他人事としてしか考えられず完全に思考停止していることも知っている。そんなわけで、この件に関しては、せっかく今まで生き延びて、ようやく生きることが楽しいと感じられるようになってきた私にとって、ちゃんと危機感を持つべき話題だと思う。

というわけで、普段からもうちょっと気にするようにしていこうと思います。まだ経験値ゼロなので語ることはありません。