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「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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発達障害

その言葉、相手が発達障害だという認識がなくても言いましたか?


先の記事で書いたように、私はこの記事を支持します。

ただ、この記事について全面的に褒められたものではないのはわかるのだけれど、
はてブの反応で気になるものがあったのでこれについて補足しておきますね。

褒めてるかけなしているかは関係ありません。「リンクをはさみまくる」ことへの指摘です。

①とりあえず、数行ごとに自分の過去記事のリンク張りまくるから読みにくい。

②まぁ、こういう過去記事へのリンクのちょうどよい配分がわからないところもASDたる所以なんでしょう
③記事中に挟まる大量の無駄な自ブログリンクに辟易して、とりあえず別の記事を見てみたらそれも同様に無駄なリンクが数行ごとに挟まっているので、なるほどそういう病気なのだな、と。

④インパラグラフで自分の過去記事挿入してPV稼ぎっていう時点で読む気なくした。こういう輩は中身抜きにアウト。知を共有したいという感覚より別のものが優先してる。差し込むなら文脈にそわせろよ。

⑤この短期間にこれだけボリューミーで説得力のある文章を作れるのはある種の才能だと思う。もっと自己肯定して欲しい。

これ、私のブログのことを言われているのかと思いました。
私もASDですし、私も記事が長くて、かつ自分の過去記事を大量に引用することがあるからです。


でも、私はそのことについて、同様のコメントを貰ったことは殆どありません
(何回かはあります。特に画像を挿入するとよく言われる)

①みたいなコメントはたまにもらったことがあります。
でも②や③や④のようなコメントは一切なかった。
逆に、これは褒めているつもりなんだろうけれど⑤みたいなパターンのコメントももらったことないです。

これは私の文章が読みやすいということを意味しているわけではないでしょう。私の記事でも同様に長いとか引用多くて読みにくいと思う人は同じようにいるけれど、私のことを発達障害者だと認識していなかっただけだと思います。私はたまに発達障害の記事を書きますが、それをブログのトップに押し出してるわけではないですからね。「書き手が発達障害ということを知っているとこういうコメントを書く人が増える」ということだと思います。

こういうのは無意識なものだと思うので、せっかくだから意識してもらいたいです。
「peek a boo」のはてなブックマークコメントでも、「アスペルガー」という言葉を与えられた途端に、まるで免罪符を得たかのように彼を叩く言葉に遠慮がなくなってる人が見受けられました。



ただ、勘違いしないでほしいのですが、私はこれをもって差別だーみたいな話をしたいわけじゃないです。むしろ私は発達障害に関しては、軽々しく差別という言葉を使うひとを嫌悪する立場であることを何度も過去に述べています。


今回は、たまたま私は当事者だから気になっただけで私も他の分野については同じようなトラップにはまってることはあると思います。なんだったら、はてなブックマークを発掘して指摘してくださっても結構です。だから、今回の件も、自分を棚に上げて上から責め立てる、みたいな気持ちで書いてるわけではない。「こういうのは誰にでもあること」という感じで、当事者からこういう声があったら少し耳を傾けてみて、考えてみてもらえると嬉しいです。

「こういうところちょっと気になったよ」
「そうか。すまんな。ちょっと気をつけるわ」
「ええんやで」

くらいの「ちょっと気になる」部分は、同じように「ちょっとしたやり取り」で良くしていけたらなと思うのです。

ネットだとすぐに「◯◯を殺そうとした話」とか「◯◯に殺意を覚える」みたいな強い表現で耳目を集めようとする人がいます。そういう「強い言葉」を使ってる人に便乗するのやめましょうよ。そういう人には「表現が強すぎる」と一言だけいって、それでも治らないなら「>そっとしておこう」の精神が必要かもしれません。*1




補足 ちなみにやたらと長文だったり過去記事を挿入しまくる理由について

一行でいうと「単純に、言いたいことが多い」からです。
何故言いたいことが多いかというと何度も何度も同じことを考えているからです。

上の記事の著者の事情はわからないので、私の話として説明します。

なぜこうなるか。これについてですがASDの特性として「こだわり」があります。

こだわりと言ってもみなさんがイメージするものとは少し違うと思います。
自分が納得出来ないことへの抵抗や不安が強いため普段から自分が納得するために、普通の人より何倍も手間をかけることが多いということです。

そのため、同じことでもちょっとでも気になることがあるとを何度も何度も考え直したり違う言葉で表現し直したりということを繰り返すわけです。ASDでブログをやってると、そういう試行錯誤の結果がどんどん蓄積されていきます。これらのことは大抵は一人で考えていることが多いですから、他人に対して関連する話をする時、今までの蓄積を動員してくることになります。その結果として記事が長くなり、大量の過去記事の自己参照がでてくるわけです。
これは少なくとも本人の中では必要な分量だし必要な引用です。④のようなPV狙いとかいう指摘は誤りだと言えます。

ブログと違ってリアルではそれなりにわきまえてる人が多いと思う

もちろん、相手からしたらいきなり長文や大量のリンクを送られても困るでしょう。だからそれについて戸惑いを感じるのもわかります。なので無理して付き合ってもらわなくてもいいかと思います。

私も、ブログではなく対面の場では、自分が喋りすぎたり過去の話をしすぎるという傾向は経験上理解しているため自重していることが多いです。ブログについても、普段はあんまり長すぎないように気をつけるし、小見出しなどを使って読みたいところだけ読んでください、という体裁にしています。
ただいざ本気で語る場合は、やはり長文かつ引用しまくりで、あますことなく自分が思うところを語ろうとすると思います。

そもそも自分が細かく説明してくれないと納得できないし、
経験上自分自身の話は細かく語らないと他人にズレて理解されることが多かったから
このくらい語らないと不安だし、語っても語っても足りないくらいです。

普通の人でもこういうことないの?まじで?

ただ、正直これがASDの特性なのかどうかはわかりません。
私はこういう記事になる理由を「あえて」自分のASDの特性に結びつけて考えてみましたが、
健常者はこういう風にならないのでしょうか。まじで?


普通の人でもこういうことってありませんか?
大事な話であればあるほど、脱線を踏まえて長く語らなければという風になりませんか?
ならないのであれば「言葉足らずでも自分の言ってることを相手に察してもらえる」という信頼はどこから来るの?

私はそういう「安心感」みたいなものを感じたことが殆どない。
友達は、ズレとかがあっても「まぁこいつのことだし」といって受け入れてはくれるけど、通じているわけではない。
両親は昔から受け入れてもくれなかったけど、そのかわりに説明すればわかってくれるというギリギリのラインではあった。

だから昔から人間関係というのはめちゃくちゃ疲れるししんどいものだと思っており、妄想かもしれないけど心の底から「少ない言葉でもわかってくれてる」っていう安心感は一度味わってみたいとおもってます。(そういうところを描いてくれれる戸田誠ニさんのマンガが一番好きです)

そういう意味で私はまだここまでは開き直れていないってことなのかな……


もしあえてASDという言葉を使ってなにか発言されるのであれば

そういうわけで、結論から言うと、上のコメントのうち①~③は無神経ではあるけど間違いではないです。ただし、PV狙いを指摘する④は見当はずれだし、⑤のコメントも褒め言葉のつもりでしょうがやはりズレています。ASDの人の長文はどちらかというと呪いとか劣等感に関わることなので、あまり言われても嬉しいとは感じないです。

健常者の方が普段生きていく上では知る必要のないことではありますが、あえてASDという言葉を使ってASDについて言及されるのであれば、せめてこのあたりは理解して欲しいです。

*1:つい先日私も「BookWalker」の記事に関してつい強い言葉を使いすぎの記事を書きました。そしたら、一度目だから指摘するけど、次からはスルーしますね、ってはっきり言ってくれる人がいました。こういうのはありがたいです