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「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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「元ブラック企業の管理職」という存在について思うこと

いいぞ ベイべー!
逃げる奴はベトコンだ!!
逃げない奴はよく訓練されたベトコンだ!!
ホント 戦争は地獄だぜ! フゥハハハーハァー

唐突だけれど、私はブラック企業やブラック職場で長年続いて来た人はどこかしら認知が歪められている可能性が高いと思っている。戦場帰りの兵士のようなものだと思う。


本人もブラックな環境の被害者ではあるのは間違いないのだけれど、少なくともブラック企業で管理職クラスにまでなっている人というのはそういった環境に過剰適応していることになる。つまり、どれだけブラックな環境であっても誰かの上に立っているということは、一般社員に対する加害行為に一切かかわっていない可能性は低い。
これは日本軍の研究などでもよく指摘されている話だ。

一部の例外が美談として取りざたされるということはたいていはその逆なのだ。私はそういう前提で考えている。

少なくとも私が知る限り塾業界、不動産業界、証券業界、IT業界医療業界などにおいてはそうだった。食品業界がどういうところか知らないが、ここだけ例外ということは考えにくい。

なので、本人が己の加害行為について一切認知してしないのであれば。まして自分だけは英雄的に正義のみを行っていたと主張している人がいたならば。その人は自覚があるかどうかはわからないが相当認知が歪んでいるといえる。そして、その認知のゆがみは、環境が変わった時に一気に露呈することになる。


ここは大事なところだが、これは本人の責任というわけではない。生存のための適応の努力結果であり、それを責めてはいけない。それを否定することは「あの時死んでいればよかったんだ」というのと同じだ。

とはいえ、いつまでもその振る舞いが正当化されるわけではない。



ブラック企業サバイバーについて

ブラック企業の問題の根幹は、一言でいうと人治主義である。

長時間労働やパワハラ、宗教化などの現象はすべてこの「人治主義」が根本にある。人が地位に任せて暴走することを制限するルールが一切機能していないのだ。だから「ブラック(違法)企業」という名前がついている。

最も大事なのはオーナーが「自分の思い通りではなくても従わなければならないルールがある」と認識しておらず、しかもそれがまかり通っていることだ。


「オーナーのルールが全て」という思考がまかり通って局所的に治外法権になっていることがブラック企業の弊害だ。

そういう場所ではオーナーに気に入られた人間だけが優遇される。その分、オーナーのお気に入りでない人たちは冷遇されたりリソースを削られたりする。それを当たり前とする思考に染まってしまうのがまずい。そこでは当然「自分が冷遇される側にならないように」立ち回る人間しか生き残れないし、生き残った人は、冷遇される側の人間に同情心を抱かなくなる。それはお前が生き残るために努力をしてこなかったのだ、と誤った生存バイアスを強化してしまう。


また、ブラック企業というのは、数字に対するこだわりは並みの企業よりずっと強い会社が多い。数字至上主義なところがあって、それ以外の要素を軽視または否定し、数字さえよければ勝手なふるまいが許されたり高い給与を得たりすることができる場合がある。このため数字のためなら何でも許されるという考えを社員に植え付けがちだ。ブラック企業で管理職になっているということは、そういう文化にきっちり思考が適応できているということだろう。そういった文化のため、環境が変わってもやはり数字を追い続けるようになり、数字についての意識が低い他の社員を見下したりすることもあるかもしれない。


ブラック企業の元管理職という立ち位置の複雑さ

何が言いたいかというと、ブラック企業が存続しているのは、オーナー以外も、しんどい思いもしているだろうが同時に同時に「それなりに」うまい思いをしている人間がいるということだ。そうでなければさすがに長続きはしない。
要するにオーナーだけが悪いのではなく、オーナーが良しとする企業文化と波長が合っていた人たちがいて、その人が実行部隊として下の人間に無理をさせていたわけだ。スルガ銀行におけるA営業部長のように。そういう人たちはその企業が理不尽であるとはわかっているし、オーナーや上司を心では見下しつつも、表面的には持ち上げたりして「自分の利益は守りつつ」「立場が下の人間や顧客に割を食わせる」ことはできてしまうのだ。


そういう人たちがどういう気持ちで日々の業務をこなしているのかはうかがい知れない。心では悲鳴を上げているのかもしれない。「母なる夜」の主人公のように耐え切れずに自殺する人もいるだろうし、「マージンコール」に出てくる登場人物のように、日々の理不尽やストレスフルな状況を喜劇として茶化すことで現実を斜めにとらえ、自分の心を楽しく保てる、というブラックユーモアやロックンロールなセンスの持ち主もいるかもしれない。


ただ、少なくともそこでは本人の意思をもって加害行為は行われているわけだ。そのことと向き合うことを避けるまでならともかく、そういった行為を正当化したり自分をヒーローのように持ち上げる思考が自分の中に当たり前のこととして根を張ってしまったら、それは他人にとって害になってしまいかねない。


戸田誠二の短編「あおひげ」には本人がそうありたいと望んだわけでないのに、そうやって人を〇さずには我慢できない性質を得てしまった男が、普段は可能な限りいい人であろうとしてふるまうものの、どうしても我慢しきれず人目につかないところで他人を〇す描写がある。この男の末路はとても悲しい。


といったことを考えると、もし元ブラック企業の管理職であることを明言し、他社から反発を受けるようなことを書き続けている人がいたとしたら、そのズレを認識していないのか、それとも、本人がブラック企業で受けた痕を誰かに知ってほしいのかもしれない。実際に某はてなアイドルさんは今でも「これほどまでに自分をゆがめたブラック企業や毒親を許せない」という気持ちを定期的に吐き出し続けている。私も何気にそういうところはある。自分も時々そういうことを書いてしまう。


過去に受けた理不尽に対する痛みや恨みというのは気を抜くとすぐにぶり返してしまう。しかも無自覚に。その痛みに突き動かされる形で、他人に厳しくしたり見下したりするのはよほど気を付けないとやらかしてしまう。これもひとつの痛みや苦しみの表現だと思う。こういう表現も恢復の過程では必要なのではないだろうか。 

いつまでもやってたら有害な人間として排除されても仕方ないと思うけど、今の時点では私からはそういう人を頭ごなしに否定することはできない。