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親しい関係でも「悪いのは理解力/想像力/察する力に欠ける受信側」と考えることのメリットって何?

私のダラダラ書いた文章よりずっと簡潔で分かりやすいブックマークコメントがあったからメモ。

「要は想像力がないんでしょ?」「要は理解する気がないんでしょ?」からディスコミュニケーションは始まる - この夜が明けるまであと百万の祈り

コミュニケーションミスが発生したら、悪いのは理路整然/説得力/納得させる力に欠ける発信側とする男性業務連絡文化と、悪いのは理解力/想像力/察する力に欠ける受信側が悪いとする女性雑談文化との戦いなわけよ。

2019/04/25 09:29


男女で分けるのが良いのかわからないけれど「業務連絡文化」と「雑談文化」の戦いっていう話はこれすごくよくわかる。
実際にこういう話はよく言われますし、なんとなくそうなんだろうなってことはモヤモヤと理解できる。



ただ、私にはやっぱり、この「受信側が悪いとする」というか「察し力が大事」な空間の良さが全然わからない。

そもそも「察し力が大事」というが、本当に察しているのか?が疑問になることが結構ある

というか私の観測範囲で申し訳ないけれど、今までの人生で出会った「察し力が大事」とかいう人たちなんだけど、察し力という割に、こちらが言ってることをちゃんと受け取る力が低い気がする。「自分が受け止めたいように受け止めてる=忖度してる」だけなのに、自分は察し能力が高いと勘違いしている人が結構多い気がする。

そして、全然察してくれてないわりに自分がよく相手のことを察していると思い込んでいるせいか、相手が自分のことを察するのを強く求める人が多かった。

どうもね、なんか言ってることとやってることが違う気がするのであまり信用できない。

本当に君たち、相手のことを察してるの?正確に理解できてるの?っていつも言いたくなる。

どうも、この人たちのいう「察し」って、私の思っている察し=自分の主観を交えずに正しく受け止める、とは全然違うんじゃないの?って思ってる。

んで、はたから見てて本当に察してるなって思う人は「察し力が大事」とか言ってるの見たことない。


そもそも「受信側が悪いとする」ということが前提のシステムのメリットって何?

もちろん「自分が聞き手の時に」話が通じないのは聞き手のせいだ→だからもっと上手に聞けるように頑張ろうって思って自分を高めるのはもちろんいいと思うんですよ。

でも「自分が伝え手の時に」話が通じないのは相手のせいだっていうのはなんか意味あるんですか?

「雑談」において、察し力が求められる or 話し手は適当にしゃべってもよくて周りがそれに合わせるべきって文化が発展する理由イズ何? 

みんな意識してやってるわけじゃなくて、それが当たり前に広がるということは、そのことにメリットがあるからですよね?

そのメリットが何なのか私には全然わからないです。

親しくない関係においてそういう反応はいいと思います。ネットで通りすがりのやつとかに自分が言ったことが伝わらなくても私の知ったことじゃないですしおすし。

でも、親しい関係において、その考え方を採用することに何の意味があるの?

その考え方で幸せになれるの?

それめちゃくちゃしんどいわりに得るものが小さすぎません?

それともなんか私のわからない仕組みで満足感とか幸福感を得られるの?


第一あんまり察し察し言いすぎることとウェイウェイ文化ってめっちゃつながりがあると思っているので
(とりあえずメンバーの誰かが何言っても盛り上げないといけない
  →ノリが悪い奴とメンバーからはじかれる
   →全然察してないけどとりあえず過剰にノリの良い反応をしなければならない
    →高度に発達した察しと、思考停止したチキンレースみたいなウェイの区別がつかない)
私はこっちの方向って本当に怖いなーとしか思わないんですよ。

「少なくとも私は」いちいち普段の会話で察する力を求められるよりきちんと伝える(=伝えなかったことで怒らない怒られない)文化のほうが楽。

非言語コミュニケーションが重要じゃないとは全く言わないけど、「些細なことならともかく大事なことほどはっきり言葉にする」「言葉にしてないことを察しないからと言って怒らないし怒られない」という関係のほうが絶対に事故が少ないと思う。私はこっちのほうが本当に気分が楽。

逆に「察しが悪い、許せない★★★★★★★」みたいな形でジャプニカ暗殺帖に★がたまっていくシステムだと生き残れる気がしない。

だって、このシステムだと、いざというときに大事なことが可視化されてないわけじゃん。その状態でトラブルとかどう乗り切るの?この状態だと「察する力」が悪い方向に暴走したときに適切な場面でブレーキ踏めないのでは? 間違った察しに基づいて感情をエスカレートさせていき、怒りに任せてさらにアクセル踏んで相手ひき殺した後に「アクセルが戻らない」みたいなことを言い出す夫婦山ほど見かけるので、それって普通にコミュニケーションのシステム設計悪すぎない?って思っちゃうんですよ。



察しに頼ったシステムはリスクに対して脆弱すぎるような気がするけどそうでもないのかな?

あえて言えば、何事もうまくいっていて阿吽の呼吸とかあばたもえくぼな関係であればいいかもしれないですよ。深い信頼や愛情に支えられた関係、素晴らしいですよね。うまくいってるときは、少ない言葉で分かり合えるほうがコストが少なくて楽、みたいな感覚があるのかもしれない。

でもさ。トラブルが起きたときにその「察する力」に頼るのって普通にリスクマネジメントとして出来が悪すぎると思うんですよ。まさか一生トラブルが起きないとでも思ってるの?そこまで相手を信頼してるの?この人だったら私のことなんでもわかってくれるって?

それはちょっと自分以外の他人に対して期待しすぎじゃないのかなって思う。ニュータイプかな?それで期待しすぎて思い通りにならなかったら愛情がさめるとかそういう話をしてる人さえいますけど、さすがにそれは脳みそとろけすぎじゃないかな。

よく育児とか家事とか夫婦関係って仕事よりはるかに大変だっていう話をするけど、その割に、情報伝達やコミュニケーションシステムが、深い責任がない学生時代のものだったり、恋愛の時の状態にとどまって、その感覚で文句言うのはなんか違うでしょ。幸せになりたいなら、幸せになれるように考え方や仕組み変えなきゃダメなんじゃないの?

この問題に関しては水谷さるころさんの夫婦関係本がかなり好きです

この点において、最近読んだ水谷さるころさんの話が「これいいな!」って思って読み返してます。

www.tyoshiki.com

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