この夜が明けるまであと百万の祈り

発達障害者としての生き方によく悩んでます。いろいろあって今現在は教育系の出版社でつとめてます。普段は自分が好きなマンガの話してます

「鬼滅の刃」 なぜ炭治郎はここまで「罪を憎んで”人”を憎まず」を貫けるのだ……

関連作品
月詠
うしおととら


「鬼滅の刃」については、1年半前にズイショさんにお勧めしてもらった時に以下のような感想を書いています。
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この時点から面白いなとは思っていたんですが、昨今のネットを見ているとなおさらこの作品の主人公である炭治郎の姿勢はとても大事なもんを描いているなと思います。

上の記事を書いたときから、鬼滅の刃という作品も、その作品に対する私の感覚も変わってないのですがこの2年くらいで、ネットの「危うさ」みたいなのはますます増えてきてる気がする。

3巻

「小生の…血鬼術は……凄いか……」
「…………
 ……すごかった。
 でも。人を殺したことは許さない
「……
 …そうか」

炭治郎はラスボス以外に対してはこの姿勢を崩さない。


人を殺すという行為自体は絶対に許さないが、鬼だからといって無条件で否定しない。こういう主人公はうしおととら、のうしお以来であるように思う。

これはすごいというか、異常だとすら思う。

2つを区別することが常人にはまず難しいし、そのうえで認めるべきところは認めるということができる人はさらに少ない。 そもそも、「敵対するカテゴリ」の存在を、一人一人識別できるという時点でもうすでに難易度が高いからだ。

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ネットでは、「自分が正義の側として誰かを攻撃し続けていないと不安でしょうがないような人たち」をよく見る。こういう人たちは、見知らぬ誰かが、別の誰かを「こいつは正義ではない」と指さして攻撃し始めると、その噂を聞きつけてすぐリンチに参加する。鬼ではない人間相手でも、その行為だけでなく人格そのものを否定しにかかり、デマに踊らされてまともに仕事をしている人を勝手な思い込みでリンチにかけ、それが間違っていても知らされても全く反省しないし、慎重になることもない。 なんなら「ちゃんと説明しない人が悪い」とか「自分は騙されただけだ」と思っている。そんな事例をたくさん見かけて、たいへんうんざりさせられる。

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私はこういう事例に対し、東大総長の言葉を借り、かつ「こういうものを求めてはいけない」という戒めを込めて「質の低い共感(安心感)」という言葉を割り当てることにしました。


きっとそうやって「質の低い共感や安心感」を求めてデマに踊らされる人たちは弱い人なのだと思う。なにかニュースを見ただけでも、自分で何一つ判断できなくて、ただ人の言ってるそれっぽい話をうのみにする。反論でよりそれっぽい話が出て、それに周りの人が同調してたら流されるのだろう。己を信じて、己で考えて、己の責任で判断をするということができない。それなら黙っていればいいのに、それもできない。大抵のことは「わからない」とか「興味ない」でいいのに。

そうやって自分は弱者だとか、被害者だと言い訳しながら何一つ責任を問わずに無自覚に人を傷つけるような発言を平気で毎日繰り返す。 もしその人たちが「わからない」時に「わからない」とか「興味ない」が許されないと思っているのだとしたら、大分窮屈なところに自分を追いやってしまっていると思う。そのせいで、自分の意見や自分の思考が推し殺されてないだろうかと心配になる。




<閑話休題>

これについては、小島アジコさんの「怪物は夢を見ない」の中に収録されている「それはたぶん祈りのような」という小品でも描写されている。

怪物は夢を見ない 現代寓話

怪物は夢を見ない 現代寓話

(※kindle unlimited 無料なので読める人はぜひ実物を読んでください)

特にいじめられているとか家族に問題があるとかではなくて、ないのに何もかが怖くて仕方ない。みんな同じように怖いはずなのに、私はそれを分かち合うことができない。
(中略)
どうでもいいことで、私はどうしようもなく削れてしまう。痛みや辛みを引き受けるものが必要だ。苦痛のアウトソーシング。手首を切ったり、いじめをしたり、〇E〇をしたり、蟻を踏みつぶしたり。どこかに苦痛を投げつけてもいい壁を探している。自分の体や弱い人たちや悪い人たちに、毎日のゆっくり溜まっていく澱をぶちまける。
(私は)誰かを削るより自分を削る方がましだと思う。でもみんな正義の味方をやりたがる。「死んでもいい、悪い人」を探している。みんながみんな、そうやって悪い人を探している。弱くて、悪い、一方的に安全な場所から石を投げつけてもいい場所。
この世界がそうやって回っているって思うだけで、私は怖くってどうしようもなくなるんだ。

「怪物が見えるのは怪物が住んでいる人だけだよ。これは秘密。誰にも見られたらいけない。もし正義の味方に見つかったら、怪物を倒しに来るからね。怪物を探して見つけて殺すのがとっても楽しい趣味の人たちがいる。」
「でも怪物が見えるってことは」
「そう」
「その人たちの中にも、怪物がいる」

小島アジコさんは面白いんだけど話を膨らませないでそのままにしちゃうのがちょっと残念。深淵につながる穴をいろいろ見つけようとする割に、穴を見つけた後でそれをのぞき込もうとはしない感じがするよね。適度に自虐行為を繰り返すけど、決してそれ以上のことはしないみたいなもどかしさがある。

</閑話休題>


「質の高い共感」の一つの事例としての「炭治郎」が今後も気になる

それにしても、こういう人たちのやるせなさを想像することは可能だ。なんなら哀れだとは思うこともできなくもない。だからといって、私はそれで私のブログでクソみたいなコメントした人間について超絶不愉快という気持ちが勝る。私はそこまで心が広くない。私だって強いわけじゃないのだから。

私はそういう人たちをどうすることもできない。慰めたりする気は全くない。
黙ってブロックしたりして遠ざかるくらいしかできない。


こういう存在相手であっても、炭治郎なら、その罪は憎んでも、あくまでその人は否定しないのだろうか。「殺さねばならぬ鬼相手でもその相手を認められる」なんてことが果たして人として可能なのだろうか。 人はその気になれば、そこまで強くあれるのだろうか……なる必要があるのだろうか。

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<どっちかというと炭治郎の場合「ズレてる」感じだけど/figure>

この作品を見ているとそんなことを考えたりもします。

私もズイショさんからお勧めされて読み始めた口ですが、ぜひ皆さんも、アニメ放送をきっかけにこの作品を追いかけてみてほしいなと思います。アニメの質がめちゃくちゃ高いので、まずはアニメ見ていたら自然と引き込まれると思います。

先の記事でも書いたけれど、同じ鬼との戦いをえがいた作品の「双星の陰陽師」や「終わりのセラフ」と比較したときに、この作品の主人公の異質ぶりは際立って見える。

鬼滅の刃 15 (ジャンプコミックス)

鬼滅の刃 15 (ジャンプコミックス)

双星の陰陽師 18 (ジャンプコミックス)

双星の陰陽師 18 (ジャンプコミックス)

終わりのセラフ 18 (ジャンプコミックス)

終わりのセラフ 18 (ジャンプコミックス)

あとで「型」について随時整理しよう

なにか意味があるような気もする

炭治郎はすでにまとまってる
https://festy.jp/web/posts/1050470


善逸
一の型


伊之助