先に言うと、騒ぎを起こした当人はどうでもいいです。なのでリンクも貼りません。
似たような話はあちこちにあって、後付けの理由にすぎない部分を真面目にとりあって論破しても、人の感情は動かせなかったりする
— スドー🌻 (@stdaux) June 14, 2019
当人はごちゃごちゃ言ってますが、「後付け」の理由にすぎないと私も感じます。最初のツイートがばずったのでそのあと調子に乗って発言したらそこをたたかれたから主義信念の話にずらしてうやむやにする。そういう人と話をしても得るものはありません。というかイケハヤ界隈の人らしいので心底どうでもいいです。
なので、ここから先は「子供に〇〇を教えること」についてどこまでは親の判断でやるべきか、という部分について考えてみたいという話です。
論点は3つ。
「お箸をただしく持てることは大事かどうか」
「親の主義主張を子供に押し付けていい話かどうか」
「子供が覚えたくないという場合はどうしたらいいのか」
「お箸をただしく持てることは大事かどうか」 →どういう階層の人とどういう付き合いをしたいかという程度による
これについては「どの程度まできちんと持てる必要があるか、はその時代や相手による」という答えになります。カジュアルな場ですら過剰にマナーを意識して、それができていないと否定するという態度はズレていると思います。
一方で、きちんとした食事作法が求められる場はあります。そういう時にしかるべき礼儀作法ができないことによる不利益をこうむるのはやむをえないでしょう。
ただ少なくともいえるのは、人里ぽつんと一軒家で過ごし、他者と交わることがない限り、「全く必要ない」という答えはありえません。自分の子供に一人で生きろ、というつもりがないなら、他人が不快に感じる可能性があるマナーは一応教えておきます。
大事なのは子供のことを本当に考えるなら、考えるべきは「親の自分がどう思うか」じゃなくて、「子供のことを他人がどう見るか」を意識する必要があるということです。これは世間体云々という話じゃないです。漠然としたイメージではなく「将来子供が付き合おうと思った特定の個人が子供のことをどう思うか」という話です。
ここを意識せず、親である自分の意見だけが大事でほかの人などどうでもいい、というなら、これは著しく子供の可能性を制限する考えであり、虐待に近いと考えます。

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ゆえに、「必要性を頭から否定する人」は「過剰にマナーを求める人」と同じくらい考えが極端であり、そういう極論バカと会話をしたいという人はいないでしょう。
これは別にマナー講師の問題ではありません。マナー講師」は不必要にマナーを増やしていくことが批判されているのであってなんらかのマナーそのものは必要なのです。そこに長い時の試練を経ていないような思い付きレベルのマナーを提案するから「マナー講師」はバカにされるのであって無理なく浸透し、必要と思われる合理的なマナーの必要性を語ること自体は全く問題ないし、それになんでも逆張りするなら、今度はそういう人がバカになります。
イケハヤさんや長谷川豊さんがバカにされるのは、こうした中身を考えず、逆張りをすればいいと思ってる思考停止ロボットのような振る舞いをし、かつ論拠がgdgdだからです。自分の意見を伝えるために逆張りするのではなく「逆張りをして目立ちたいという手段のために目的を選ばない」からバカにされるのです。
信仰とは、神に対する依存である
神に従うもの、神に反目する者 この二者は違うもののようでいて正邪の判断を神に委ねているのは同じ 斉しく依存にすぎぬ
谷の魔女よ、すなわちお前たちよ。神の御手に揺り動かされている熱心な信者にすぎぬ信仰が罪だと言うのならば まずは己を処断するがよかろう
基本的に、箸をきちんと持てないことのメリットはほとんどありません。一方で、デメリットは多いです。
これを教えない合理的な理由がないのであれば「できるにこしたことはない」ため、
親にとって、自分のことよりも子供のことが大事ならば、教えないという選択肢をとる人はまずいないと思います。
「なぜわざわざ教えないといけないのか」というと「その方が子供にとってメリットになり、デメリットを防いでくれるから」です。
「なぜわざわざ教えないという選択をするのか」に答えが返せないなら、教えた方がいいと思います。
「親の主義主張を子供に押し付けるのはどこまでが社会通念上アリなのか」
そもそも論として、「親として、自分は箸をきちんと持てることは必要でないという主義だ」という人がいたとします。
こういう人は一つ大きな勘違いをしています。
その主義信念は本人にとっては大事かもしれませんが、他人には何の意味もないってことです。
ネットをやりすぎるたせいでとんでもない勘違いをしている人がいますが
たいていの「個人の信念」は他人にとって何の価値もありません。
その人が大事であると思った時に、初めてそうした個人の信念が尊重される余地が生じるだけです。
「親として、自分は箸をきちんと持てることは必要でないという主義だ」という話はまず間違いなく尊重されません。
それどころか、特に意義を感じない主義を他人に押し付けようとする人はまず間違いなく敬遠されます。
さて、本人が不利益を覚悟でそうした主義を持つのは構いません。
ですが、その主義を子供にも押し付けるとどうなるでしょうか。
子供が全くきちんと箸を持てない場合、ましてそれが親の信念の問題であったと事情がわかれば
程度にもよりますが、あまりに箸の持ち方が汚い場合は本人もあまり好かれないと思います。
少なくとも、相手は「本人はともかくとして、親は厄介な存在である」と判断する可能性が高いでしょう。

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友達付き合いならともかく、深い付き合いになれば、それこそ親が足かせになるでしょう。そこで「私は気にしない」「そんなことを気にする人はこちらからお断りだ」と親が言い出っても何の意味もないのです。そういうことをいう人は「自分のことしか考えてない」毒親といえます。もしそんな親がいたら、自分の信念の方が子供のことより大事だということになります。
「子供にとって不利益が生じる可能性が高く、別に教えることの不利益が生じない」とわかっていて、それでも自分の信念だから教えないという主義を高らかに語る人は、明治時代に「どうせうちの子は学校なんていっても無駄だから仕事をさせる」と言って子供の可能性を閉ざそうとした親と同じです。いや、明治時代の農家の親の場合「自分の子にそんなものを教えても無駄だ」という実利的な判断をしたうえの決定であるのにたいして、「子供にメリットがあることが分かっているが自分の信念だから教えない」はそれ以上にタチ悪いような気がしますね。
親が「うちの子に(学歴なり作法なり習い事なり)なんて要らない」「我が家の教育方針なんで」という場合、本当に要らないと考えてる場合もあれば、親自身がそれを与えてもらわなかったので自分の人生を否定されたような気分になって防衛機制が働いてしまってる場合もあり、そこらへんをどうケアするか
— スドー🌻 (@stdaux) June 14, 2019
はっきり言うけれど、他者はいちいち他人の家庭の信念とか考えないから
よっぽどのことがない限り「親が面倒くさがって子供のしつけを怠る地雷」としか思ってくれないと思うよ……。
どういう人生送ってきたら、よく知らない他人が自分の信念を尊重してくれるなんて勘違いできるんだろう。
子供がそう望むまでは教えなくてもいいのでは?について
ここはちょっと難しいですよね。
箸の件については正直議論の余地がないと思っているのですが、
「子供自身が自分にとって必要なものを判断する能力には限界がある」ことに対して、どこまで親の判断にゆだねられるべきかは人によって答えが異なるかな、と。
「こどもにとって何が必要で何が不要かを判断するのが親の責任なら箸の持ち方を教えることが必要かどうかだって親の判断にゆだねられるべきだ」という主張は可能でしょうし
逆に「箸の持ち方だって親の判断で決めていい話じゃない。子供が学びたいと思ったときまでは無理に教えるべきではない」という主張自体は可能でしょう。
ただまぁ、箸の持ち方に関しては「繰り返しになりますが」教えないことの合理的な理由が思いつかないならさっさと教えるべきかなと。メリットは簡単に説明できますし、デメリットも説明する以上議論の余地があまりないと思います。むしろ教えないならその理由を「私の主義だから」以外で説明できることが必要かな、と。
結局のところ
なにか意見を言ったとして「子供のことを真剣に考えている」と判断したらその意見は受け入れられやすいし、
そうでなくて自分のことしか考えてないならバカにされるというそれだけのことです。
説得力のないことをいって、それが批判されたときに「これは私の信念だ!他人に口出しされたくない」という感じで
個人の信念の問題に矮小化するような人は、会話ができないから周りから見限られていく、というそれだけの話だと思います。
そして、その信念とやらがあまりに歪んでいる場合、犠牲になるのは本人じゃなくて子供なんですよね。。
箸をうまく持てない人を差別してはいけないという話と混同してる人がいる
https://anond.hatelabo.jp/20190614201712
これもそうだけど、デブな人に差別的取り扱いや迫害すべきとは誰も言ってないのにかってにネガティブな方向に話を誇張・誘導していこうとする人がいる。
そうやって誇張した部分だけを否定して自分の言ってることは正しいと主張するのはイケハヤ氏が好む詭弁であり、イケハヤ論法1です。2は以前書きました。なお、自分のやり方を批判されたら問題を社会スケールにして自分の問題ではないとごまかすのがイケハヤ論法3です。
善意であれ悪意であれ、こういう詭弁を使う人は付き合わないほうがいいですね。
どうでもいいですが
もし自分の親がイケダハヤトに感化され、まだ儲かっていないのに夫婦そろってブログで食っていくと言い出して仕事をやめ、ツイッターフォロワー数とインスタフォロワー数を金で買って、雑な議論で炎上を起こしてPVを集めるようなやり方で食っていこうとするみたいな人だったらこれはかなりつらい・・・・・・。
というか、そんな阿呆な人は現実に存在するはずがないので、これ全部アルバイトが台本渡されてやってるようにしか思えないというかそうだと思いたい。
子供のことより自分の信念のほうが大事そうな親に意味の分からない信念を押し付けられている子供はいないと信じたい。