ちょっとADHDの人がらみでしんどいことがあったので
放課後カルテの11巻~12巻で、ADHD傾向を持つ小学生の男子が描かれてる回をふりかえってみることにします。
特にオチはないです。吐き出しておかないとしんどかったのでただただ愚痴ってるだけの記事です。
特に子供のころは、強いADHD傾向を持っていると自分で自分を制御できない……
この少年は、もともと活発な少年だったのに、何もかもうまくいかなくてどんどん沈んでいきます。
例えば
前日に友達を衝動的に蹴り飛ばしてしまい、それがもとでけんかになってしまい
にもかかわらず、次の日にはそのことを完全に忘れてて謝りもせず仲間に入ろうとし
当然他の子どもたちから反発されて、また衝動的にキレてしまい
その後で他人から指摘されて自分が昨日やったことを思い出して深く傷つくというシーンがあります。
これ、何が問題かというと、本人も気づいた後だと「自分が悪い」ってのはわかるんですよね。
でも、「次は気を付けよう」「次はこうしないようにしよう」と思っても
「自分の意志ではどうしようもない」って感じてしまうんですよね。
俺は、けりたかったんじゃない。
でも、またやっちゃうんだ。「俺が悪い。だめだ、今度こそやらない」って、わかってるのに。
なんかいつもあせって、イライラして、頭ん中ぐしゃぐしゃして。今だったらわかるのに、できないよぉ。もうヤダよぉ……
こういう経験を何度も繰り返しているうちに自分にどんどん自信を持てなくなってしまう。
本来は活発だった少年が、どんどん自信を失い、「どうせ何をやっても駄目だ」と投げやりになり
いよいよ何もする気力がなくなりそうになる、という過程が描かれていて凄く悲しい気持ちになります。
・サッカーがうまくてもルールを守れず、ミスをだしてチームに入れない。
・学力があってもうまく字が書けない。問題を読み飛ばす
・持ってる実力を発揮するチャンスを逃してしまう。
・仲良くしたいと思っているのに、ついかっとなって暴力をふるったり言ってはいけないことを言ってしまう
こういうシーンが丁寧に描写されており、ADHDの少年はどんどん表情が暗くなっていきます。

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親も必死に頑張っていろいろ工夫してるのに成果が出ないと、だんだん自分を守るために子供をまっすぐ見れなくなる
保護者面談の時に、この少年の保護者も出てきます。
最初は「うちの子がダメなんです」って口調でしゃべっていたのですが
「学校ではだいぶましになってきましたよ」っていうと安心するどころか悲しそうな目をします。
「……やっぱり私が叱るせいなんでしょうか?」
「いえあの…」
「周りもそういうの。しつけや愛情が足りてないんじゃないかって」
「それは違います。」
周りに相談してもそういう風にいわれちゃうものだから誰にも相談できない。
そして自分なりに頑張るけれど、子供はそれに応えてくれない。それどころか外でもめ事を起こす。
発達障害の診断を受けても全く心が休まることがない。
やっぱり「自分が悪いんじゃないか」「子供が自分のことと嫌いなんじゃないか」「どうして私たちだけうまくいかないのか」ってずっと悩んでしまう。
そうこうしているうちに、あれだけ子供のことを大事に思っていたのに、
だんだん子供を見る目つきが厳しくなってくるし、子供を叱る口調もきつくなってくる。
本当はただ「あの子がこのまま孤立しないか心配」なだけなのに。

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こういう「訳も分かないまま周りに嫌われて沈んでいく」人間に対してどうやって接すればいいのか
必要なのは、社会に適応するために自分を抑えることじゃない。
自分の力に自信を持てることだ。
この作品中では、できないことに目を向けるんじゃなくて
少年が得意なことに目を向けさせて、そちらで自信をつけさせようとします。
そして、漫画なのである程度はうまくいく姿が描かれます。
あくまでこれは漫画だけれど、この作品で語られていることはある程度その通りだと思っています。
フィクションでない、専門医が書いた作品でも同様の内容が語られています。
で、こういうのを踏まえていたとしても、やっぱりADHDの人の困った特性をもろにぶつけられると凹む……
一昨日のことなんですが、まぁ知り合いのADHDの人がちょっとやらかしたのでいろいろと対処法とかをアドバイスしてたんですよね。
そしたらまぁ……なんというか……その人物がその場では言い返さずに裏垢でめっちゃ悪態をつくわけです。
(鍵垢ではないオープンアカウント、私がそのアカウントを知ってることを相手もよく理解している)
「ぶん殴りてぇ」
「世の中には喋りたくない人というのもいることを言いたい」
「言われた提案を眺めてたらほとんど無駄で使いみちがなかった」
「やばいな、あいつのせいで軽く鬱入ったかな」
で、別にこっちだけだったら全然いいんですが、翌日の行動、こっちの方がキツイ。
翌日になると、当然私が上のツイートを見ているのわかってるはずなのに、消すでもなく
「ご協力感謝いたします」
「よかったら次もアドバイスお願いします」
「良くも悪くも具体的に指示されすぎるか、丸投げされるかのものが多かったから「こうするともっと楽に行くし、クオリティ上がるんやな」という体験をさせてもらって感謝です。本当に今回の提案とアドバイスは役に立ちました」
みたいなことを平気で送ってくるわけです。
彼にこのツイートのことを確認しても「勝手に見る方が悪い」という返答。さらにいうと「見てしまった以上聞くしかないんだけれど、どっちが本音なの?」っていうと「どっちも本音」。「そのときはそう思ったからそう書いた。今はこう思ってるからこう書いた」と返される。
この人は幼稚園児とか小学生じゃなくて30過ぎの人なのですが、それでこの受け答え。すごくない?
私が彼のことをADHDだと知っていて、ADHDの特性もある程度理解しているからいいものの、そうでなかったらサイコパスかキチガイにしか見えないでしょ……。
これがADHDの特性だとわかっていても、呆れるというか悲しい気持ちになる……
でも、御覧の通りで「放課後カルテ」の少年と同じで、ADHDの特性として「衝動的に暴力や暴言を平気でふるい、そのことはすぐ忘れる」っていうのが本当にあるんです。
彼にとってはこういう精神の動きが普通でなんですよね。(自分以外に同じことやってる人がいないのはわかるはずなんですが)
とはいえ、これは「こどものADHD」です。
基本的に発達障害の人は知能障害ではありませんから知能指数が低いわけではありません。なので、普通の人であれば大人の人はこういうことはだんだんやらなくなります。
普通であれば、中学~高校生での友達付き合いとか少なくとも社会人になってからは周りにボコボコにされることで多少なりとも訓練されていきます。「ムカついて何かを殴りたくなる衝動」自体は抑えられなくても、「クールダウンの方法」や「誰にも見えない衝動のぶつけさき」などを用意してそちらで発散するなどの知恵を身に着けます。
最近は学校での支援もすこしずつ進展しており、通級で自立訓練の指導をしたり、不完全ながら幼少期からフォローをしていく仕組みも徐々にできつつあります。
そういうのではなく、いろいろと社会とすり合わせをしていく機会をすべて奪われて、「こどものADHD」のまま年だけ取ってしまったこの人を見ていると、なんかもう、どうしたらいいのかわからないです。正直もう個人としてはお手上げだなって気分になってしまいました。すごい無力感を感じる。専門家にまかせるしかないような気がする。
発達障害者って、本当に一人ひとり特性が違っていて、苦しみも違うというのはわかってたけど、この人はたぶん自分よりずっと苦しい思いをして生きてきたんだろうなと思ってとてもつらい気持ちになりました。
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