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「シン・エヴァンゲリオン」のすごさがガチでよくわからなかったのだけど解説記事読んでようやく理解した

昨日まではネタバレ語りなんてとんでもないと思っていたのだけれど。私は本日劇場でエヴァ観終わったのでテノヒラクルーする。



はやくネタバレありで、ちゃんと作品の各描写の解釈に挑む、「解説」を志すようなエヴァ語りがもっとたくさん見たい。





ネタバレに配慮したエヴァ語りはひっきょう語り手の自分語りにしかならない。残念ながら自分語りが面白いのは面白い人だけである。

私も書いた(一つ前の記事)から言いますが、ジャニオタの狂気めいた熱量を持つお気持ち表明ならともかく、基本的には他人のエヴァをだしにした自分語りは読んでも面白くないです!というか、「自分の思い出と向き合ってるだけ」の語りは「感想」ではないと思います!



なので、ネタバレができないから~みたいな言い訳なんか捨てて、ちゃんとシン・エヴァンゲリオンという作品と格闘してほしい。この作品をどこまで理解した上でしゃべってるのかわからなくて不安になる。

自分もランスの時にさんざんやったけど「作品と向き合わずに自分の思い出とばっかり向き合ってる人の語り」って読まされる側としてはかなり痛々しいものなんだなと感じました。




・・・でも、エヴァンゲリオンというのはそもそもが作品をダシにした自分との対話が主のコンテンツらしいからむしろみんなが作品そっちのけで自分のお気持ち表明を書く方が正しいのだろうか?
そのあたりからすでに私はこの作品というものがよくわからんのです……。




ちなみに理解できている人はここまで理解できているらしい。

delete-all.hatenablog.com

今作は僕の予想を裏切った。上回ったのではなく、裏切った。

今作はエヴァという物語をシン・ルートで終わらせるのではなく、
テレビ版と旧劇版とコミック版を含めた「新世紀エヴァンゲリオン」の全ルートを走破したうえで
エヴァのすべてを終わらせるという力技で終わらせた。
エヴァという物語と現象を終わらせるには、これしかない、というフィナーレだった。

考察とかネタバレとかどうでもいいくらいにスッキリ終わった。
明日も頑張ろうという前向きで爽快な気分になったのはエヴァを25年観てきて初めてだ。


フミコフミオさんには理解できているようだが
恥ずかしいことに私にはこれが本当に全然わからない。
シン・エヴァを見て泣いた人は皆これを理解できたから泣いたのだろうか。



自力でわからないのは悔しいが、本当にフミコフミオさんの言ってることが全然わからなかったので仕方なく解説記事を読むことでようやくシン・エヴァンゲリオンのすごさが分かった

www.club-typhoon.com

素晴らしい解説なので、映画を見に行ってよくわからないことが有った人はぜひこれを読んでほしい。

私はこの記事を読んでようやく理解できた。

なるほど理解してみると確かに「すごい作品」だなと思った。




逆にいうと、劇場版を見てリアルタイムで見てその場で涙を流していた人たちは、ここまでの内容をなんとなくでもこのレベルまで理解できたということだろう。

素晴らしいなと思う。この作品を初見で見てきちんと涙を流すことができた人のことを私はとても尊敬する。

私にはできなかったから。







※ここからはネタバレ記事を読みながら感想を書いていくので未読の人は絶対に読んではいけない。


シン・エヴァンゲリオンのキーワードは「書き換え」であるらしい

今作の英語表記のタイトルを見てみると、『EVANGELION: 3.0+1.0』となっているのだが、その下に「THIRICE UPON A TIME」と書かれている。
これは、公開前から指摘されていたが、ジェイムズ・P・ホーガンの『未来からのホットライン』というSF小説の原題に重なる。

『未来からのホットライン』における「書き換え」が強調している非常に重要なポイントがある。それは、「書き換え」によって変わってしまった「元の通信を送った世界は存在するとも言えるし、消えて無くなったとも言える」という点だ。「書き換え」るという行為が、その時間や世界を否定したり、抹消したりしてしまうのではなく、その存在があったことを担保するという考え方には、とてつもないロマンがある。

シュタゲの元ネタがベースにあるってのはかなり面白いな……。


Qではシンジはテレビシリーズのラストや旧劇場版と同様に、自慰的で独善的な願望の下に、ロンギヌスとカシウスの槍で世界を「書き換え」ようとする。
いわゆる「槍(やり)でやり直す」というやつだ。
しかし、サブタイトルが暗示していたように結果は「YOU CAN (NOT) REDO.」だった。
自分が受け入れられるように世界を「書き換え」るのは、違うのだ。

なるほど。カオルくんは別に嘘を言ったわけではなくて槍によるやり直しは一定のルールがあり自分の思った通りに書き換えられるわけではなかったと。


『シンエヴァンゲリオン』という作品は、私たちの中にある「これまでのエヴァンゲリオン」を「書き換え」た上で、「再構築」したと言っても過言ではない。
そうした、物語上の「書き換え」と私たちの中のメタ的な「書き換え」を同居させてしまったのが、この作品の凄みなのだと考えている。

ここがちょっとよくわかんないけど後で説明されるのかな。



旧エヴァと新エヴァの対峙

テレビシリーズや旧劇場版で、シンジは、一度は他人との強化のない世界を望むが、精神世界で自分自身と対峙し「他人がいても良い」という結論に到達する。一方で、『シンエヴァンゲリオン』では、かつての自分と同じような世界を望む父親とシンジは対峙することとなる。つまり、シンジから見たゲンドウとの対峙は、子と親の対峙であると同時に、自分と自分の対峙にもなっている

ゲンドウの視点から見ても同じことが言える。シンジの幼少期の誰からも愛されなかった孤独は、まさしくゲンドウも経験してきたものであり、それ故にパンフレットで立木文彦さんが言っているように「ゲンドウ自身がまるでゲンドウと向き合って喋っているような印象」があったのだ。だからこそ、このシーンは父と子の対峙であり、同時に自分と自分の対峙にもなっている。


あんりみてっど・ぶれいど・わーくす……。


ゴルゴダブロジェクトの恣意的な選択

ゲンドウはゴルゴダ・オブジェクトにロンギヌスとカシウスの2本の槍を持ってくることで、アディショナルインパクトを引き起こそうと試みるが、上手く行かない。『:Q』で明確に否定されたように、自慰的な「書き換え」は認められないということなのだろうか。そうして、ゲンドウを超えたシンジがヴンダーの力によって生み出された「ガイウスの槍=ヴンダーの槍」を手にして、再度の世界の「書き換え」を試みる。

「ヴンダー」とは意志のことであり、まさしく「これまでのエヴァンゲリオン」においてシンジに欠けていたものなのかもしれない。
アスカは『:破』にてシンジが汚染された3号機に乗り込む自分をどうするかを、意志を持って選択してくれなかったことに対して強い怒りを覚えていたのもそのためだ。だからこそ、シンジは明確な「ヴンダー」を持って、世界を「書き換え」る。

ここは筆者がなんとなく理解してるみたいだが、特別説明があったわけではないんだよね……。
ゴルゴダオブジェクトは別に碇ユイの意志というわけではなくもっと普遍的なものであるはずなんだが、どういうルールなんですかね……。




旧作ヒロインを一度「エロゲヒロイン」に堕とし、そこから救い上げるといういやらしい脚本

アスカ、カヲル、レイ。彼らは、エヴァンゲリオンに関わることでしか存在意義を見出されなかった子どもたちだ。

だからこそ、それ以外の場所で自分は生きることができないのだと思い、外の世界に出ることを試みない、あるいはそれが認められなかったのだ。

しかし、シンジは他者に自分の思いを押しつけるのではなく、対話の中で彼らの中にあるエヴァンゲリオンから解放された人生への渇望を見出し、その背中をそっと押してあげる。

わかりみがある。 

わたしはここのシーン見てて「さよならを教えて」とか「腐り姫」とか「クロスチャンネル」とか「マヴラブオルタネイティヴ」とか「君が呼ぶ、メギドの丘で」っていうエロゲを思い出してた。
エロゲではこのあたり積み重ねでいろんな作品を作ってきてたなあと。


さよならを教えて ~comment te dire adieu~



腐り姫



ここだけは劇場で見ていてもめちゃくちゃよく理解できてグッときた部分だった。

エヴァンゲリオンの世界は広義的にはループものだが上で述べられているようにどちらかというとシュタゲに近い世界線分岐ものに近い。その結果、無印エヴァと違い、新エヴァに登場する綾波(黒波)も式波もオリジナルではない。つまり、この新エヴァルートでだけどれほど見事に綾波と式波だけをたとえ救済できたとしても、それではオリジナルが救済されることはない。 

(※この欺瞞をいやらしいほどえげつなく突き付けていたのが「RE-TAKE」という作品である。ループした先でシンジはアスカを救おうとしたが、ループ先に救済されなかったアスカの魂がついてくることで「お前がどれだけこの世界のアスカを救おうが、元のアスカに対する贖罪には一切ならない」ということをこの上なく明確に突き付けた。無印エヴァのシンジの行いはいかなる行為をもってしても取り返しがつかないものとして描き、そのうえで元のアスカの魂を救済することに成功しているもう一つのエヴァンゲリオンの物語といってよい傑作である。)

本作はこの「惣流と式波は違う存在である」という点から逃げなかった。本作は黒波式波だけでなく、オリジナルである綾波ポカ波惣流もすべて救おうとした。そのために本作ではマブラヴオルタ方式が採用されている。世界の深層にまで潜り、あらゆる可能性を全て引き付けてしまっている因果律そのものを書き換えてヒロインを解放するという方式である。(マブラヴオルタの場合は主人公が解放してもらう立場であるのだが)。



自分の中に縛り付けていたヒロインたちを(エヴァンゲリオンの場合は、ゲンドウによって仕組まれているのでより厄介だが)自分の中から解放していくシーンだけは、自分の中でもよく理解できた。

(※このプロセスからミサトがはじかれた=ミサトは自分で自分の選択で運命を選んだのも印象的だった。ミサトはシンジに近しい存在ではあっても独立した存在だったのだ)





多分私だけではなく、当時エロゲが好きだった人はこの「送還の儀式」には強く感じるところがあったと思う。

アスカたちを送り出し、自分だけになったゴルゴダオブジェクトの記憶の世界の中で、徐々にアニメがラフ画へと転じていき、シンジの世界が崩壊していく。

最後にマリという「他者」によって求められることによって、別の着地点に到達する

シンジの世界が崩壊していく。そこに現れるのが、他でもないマリだった。そして彼女はシンジの存在を望み、彼を助け出す。

世界は「書き換え」られる。「シンジの」ではなく、「自分とそして全ての他者の」望む世界へと「書き換え」られる。

ふーむ。そういう位置づけなのはもちろん理解できたのだけれど。

なんでマリがシンジくんの存在を望んでくれたのか、そこが私にはちっとも理解できてなかったりするので誰か教えてほしい。

正直ここが本作で一番大事な部分だったと思うんです。

シンジに対して、綾波やアスカでは与えられなかったものを与えてくれるマリという存在は本作で最重要だったと思うわけですが。

別に恋愛でなくとも、マリがシンジに手を差し伸べた理由はどこにあるのか? それが私にはよくわからない。

好奇心でもなんでもいいのだけれどそこが納得できなかった。「インガノック」のギィ先生のような執念はマリにはなかったと思う。

al.dmm.co.jp

ここに有意義な説明がされない限り、旧エヴァンゲリオンは「マリ」という存在がいない限りシンジを救うピースが足りずバッドエンドにしか到達し得ないということにならないだろうか?(すっごい嫌だけどわかり手の話とちょっと近い結論になっちゃうな…) 


(※もしそうであれば、旧エヴァンゲリオンの設定にマリを足さずにシンジが自意識の壁を超える展開を描いた「RE-TAKE」の価値が非常に高いことになりそうな予感がする。)
www.youtube.com


(※また、このシーンで、ほぼ同じ行為を行い、同じく崩壊寸前までいった「CROSS+CHANNEL」の黒須太一という存在のすごさを改めて感じる。

CROSS†CHANNEL -FINAL COMPLETE-
彼は真希波マリという存在がなくても、とある要素を支えにして自分の力でこの崩壊を耐えきった。シン・エヴァンゲリオンの結末に納得がいかない人はこの作品をプレイしてみるといいだろう。シン・エヴァンゲリオンの答えはあくまで庵野の選んだ答えに過ぎず絶対正解ではない。他の答えは無数に存在する。)





シン・エヴァンゲリオンの終わり方は単なる「エロゲのグランドエンディング」と何が違うのか?

『シンエヴァンゲリオン』のラストに描かれた実写世界は、まさしくエヴァンゲリオンのいない世界である。

では、これまで描かれてきた物語は全て無かったことになってしまったのだろうか。いや、決してそうではないのだろう。

「元の通信を送った世界は存在するとも言えるし、消えて無くなったとも言える」という『未来からのホットライン』の世界観を鑑みると、エヴァンゲリオンのいた世界は存在するとも言えるし、消えてなくなったとも言えるのだ。だからこそ、『シンエヴァンゲリオン』はこれまでの全てを否定したり、無に帰したりするような作品ではない。これまでの全てを「書き換え」た上で、「全肯定」してみせたとんでもない作品なのである。

うーん???

この世界に到達したシンジ君を祝福しつつ、他の世界線の物語の存在を否定はしないってことでおk?

それは別に過去の作品を肯定したという話なのだろうか?

シュタインズ・ゲートでは、他の世界線の存在自体は認めるものの、別に肯定はしてなくない?

このシン・エヴァンゲリオンの終わり方がベストであるという答え自体は突き付けてると思うのだがそういう話ではない?

他のをBADEND、あるいはNORMALENDと位置づけ、TRUE ENDやGRANDENDを設定する行為を「肯定」と呼ぶのはエロゲプレイヤーとしてはよくわからん。エヴァンゲリオンによってエロゲ業界は活性化したと聞いているが、そのエロゲ業界が長年の歴史で積み重ねてきた「マルチエンディング→KANON問題→TRUEEND→個別ルートを包括するGRANDEND」というソリューションによってエヴァンゲリオンという物語が完結を迎えたという話?


と思ったらそういう話ではないらしい。




「アディショナルインパクト」は鬼畜王ランスとランス正史の融合みたいな感じかな?

第1層:私たち観客のいる現実
第2層:シンジたちのいる物語内現実(観客から見た虚構=これまでのエヴァンゲリオン)
第3層:シンジたちのいる物語内虚構(観客から見た虚構内虚構)
第4層:第2層と第3層が融合した世界(虚構内現実+虚構内虚構)

シンジとゲンドウのやり取りが第3層のところで為されているのだが、ここでエヴァンゲリオンイマジナリーの起こしたアディショナルインパクトによって、第2層と第3層が融合し、第4層が形作られる。第4層は「これまでのエヴァンゲリオン」が全て融合した世界であるため、アスカで言えば「惣流(オリジナル)」と「式波(クローン)」が融合している。そんな世界の中で、アスカやカヲル、レイたちはイマジナリー自分の「居場所」を探している。

そうして、居場所を第4層で見出すことができた3人は、新たに作り出された第1層に近しい世界へと旅立っていく。ゲンドウがエヴァンゲリオンイマジナリーを使って壊したのは、第2層と第3層の壁であったが、シンジが壊したのは第1層と第4層(第2層と第3層を内包する)の壁だったということになる。だからこそ、文字通り『シンエヴァンゲリオン』という作品は、「エヴァンゲリオン」というシリーズの枠組みそのものを脱構築してしまい、私たちと地続きの世界へとキャラクターたちを送り出す

なるほど。こういう演出だったのか。ごめん、正直見てて全然わかってなかったっす。

要するに、夏エヴァはアニメ世界(惣流アスカ)から拒絶されることによって、現実に帰れという話で終わっていたのだが。本作では「アニメ世界」と「現実世界」を対立する存在、隔絶された存在としては描かなかった。

むしろ現実世界に溶けこんだ存在として描いている。「エヴァンゲリオンにしか居場所がなかった当時の自分と違って、愛していたエヴァンゲリオン的なるものはきちんと現実に遍在するのだ」ということを悟らせている。

まるで「僕の地球を守って」のような終わらせ方である。

(※余談であるが、最初アディショナルインパクトのシーンを見て私が思ったのは「3×3EYS」や「ドラッグオンドラグーンEエンディング」のシーンでした。)



ありがたいことにちゃんと「なぜマリだったのか」まで解説してくれてるわ

この世界がカヲルくんが示唆していたように永劫的にループしていたのだとすると、シンジを初めとする「運命を仕組まれた子どもたち」というのは、そのループの中でしか生きることのできない存在ということになる。

そもそもマリというキャラクターがこのループに介入してきたのは、シンジをこのループから解放するためだったのではないかという仮説も立てられる。彼女が「どこにいても必ず見つけ出すからね。」とシンジにやたらと固執している様から、その目的の真実味を帯びてくると言える。しかし、マリというキャラクターのバックグラウンドが新劇場版だけではいささか不足している

そうそう、そうなんですよ。そこを視聴者としてはどう解釈したらいいんですかというのが気になっていたんだが……。



マリがこの物語のループに介入したのは、そもそもユイのためだったのではないかと考えられる。
彼女がユイにもらったメガネを新劇場版においても身につけ続けているのは、ユイへの消えない思いの表れにも思える。

ええええええええ。



『シンエヴァンゲリオン』での2回では、いずれもシンジの成長を認めるような言葉をかけており、マリというキャラクターが子の成長を見守る「母親」のような存在であることが示唆されている

まじかー。この部分、ララァが生きててシャアを救済しちゃうみたいな展開なのか……。


作中でアスカが「シンジみたいなガキに必要なのは恋人というより母親だ」っていってたのはそういうことなのか……。


……というか、マリさんって何歳なん?

→コミック版エヴァンゲリオン最終巻収録の「夏色のエデン」に答えが載ってました。まさかのミサトより年上というかゲンドウくんとほぼ同じ年だったんね。わざわざこれ確認するためだけに買ったよ。


マリさんという存在を正しく認識できてるかどうかでこの作品の印象だいぶ変わるじゃん!

冬月のじじいとの会話だけでここまで察するのはキビシーっす。

ユイはゲンドウのために行動していましたから、今作で神の子として君臨するゲンドウに反抗するマリは「ユダ」の側面を持っていると言える。しかし、その一方で彼女はマリの代わりにシンジを見守り、彼に寄り添う聖母マリアないしマグダラのマリア的な役割を果たしている。その2つの役割と物語における位置づけを端的に表したのが「イスカリオテのマリア」という呼称に思える。アスカが、「シンジに必要なのは恋人じゃなくて母親よ。」と言っていたワンシーンもここに繋がって来る。

まぁそういうことですよね。

……うん、でもさ。

こういうのが作品を見ただけではかなり深読みしないとわからなくて直感的に響いてこないのはだめだと思うぞ?
みんなこれちゃんとわかってたん?そういう描き方をされていたとは到底思えないんですけど!?


これわかってて見てたかそうでないかで新エヴァの印象大きく変わりません?
私は「夏色のエデン」見たせいで「破」から見直さなくては……という気持ちになってるぞ。





この記事のおかげでようやくシン・エヴァンゲリオンについて基本骨格は理解できたけど、理解するのに最低限このレベルの努力を求められる作品というのはエンタメとしてどうなんだという気はする……

ただ、映画体験としてシン・エヴァンゲリオンが素晴らしいと思ったかというと全然そんなことはなくてまだまだツッコミどころは無限にある。

物語の基本骨格が素晴らしかったのは認めるとして、「??」ってなる要素がが飛び交いまくりの描写や演出まで良しとしていいのかっていうと、私は全然納得してないからね。

ha-navi.com
そうそうこんな感じ。このまとめはいろいろツッコミどころがあるようだけれど、こういう意味の分からんもんが大量に出てきて、なにやってんのかぜんぜんわからなくなるところが多かったんだよ!

みんなはあれどう受け止めてたんだ? 

この作品を手放しで絶賛してる人たちや本作はだめだと言ってる人たちはこのあたりどういうふうにとらえてたのかしりたい。

こまけえことはいいんだよ!なのかそれともこのあたりも理解してるのか。

個々人の理解の粒度がバラバラな状態で絶賛と批判が入り乱れてても意味がないと思う。