そういえば、以前紹介した「紛争でしたら、八田まで」ですが、
www.tyoshiki.com
今1巻無料になってます。今の内にとりあえずダウンロードしておくといいと思います。面白いよ。
本当はもう「講談社 春のマンガまつり2021」のセール期間終わってるのだけどまだ価格直してないみたいです。w
んで、この時「風太郎不戦日記」も合わせて紹介したんですが、以下の連続ツイートの中で山田風太郎の話がでてました。
山田風太郎は歴史小説化として有名ですが、同時に「戦中派不戦日記」もとても有名で、この本で「日本人とは何か」みたいな話をしています。
自身の昭和20年の日記である『戦中派不戦日記』、1970年代の初版刊行から数十年経ても版元を変え重版されている。終戦の前日には出る杭を打ち、変わり者を追い払うという日本人は「全く独立独特の筋金の入らないドングリの大群」のようになったと嘆いていた。敗因の原因を日本人が「なぜか?」という問いを持たなかったという
最近マンガ化されてたので初めて読んだのですが、マンガ版いいぞー。
坂口安吾の堕落論とは別の趣であり、何と言っても観察者としてではなく自分を当事者として描いているのが面白いです。
真の「愛国」とは何かみたいな話
(続)日本テレビ スッキリ
— kemofure (@kemohure) May 10, 2021
ロバート・キャンベル「90000人の行動制限はできない。日本は幕末の不平等条約のように煮え湯を飲まされている形で、日本を守る為にIOCと交渉しないといけないのに、交渉していない」
忖度の固まりのゲスト達と違い、キャンベルさんだけが五輪反対してくれているね...感謝..
キャンベルさんだけが、『日本を守らないといけない。その為に、IOCとちゃんと交渉して日本が有利な形で中止できるようしなくては』と愛国的なことを言って、日本人達コメンテーター達が「偉大なるスポーツの為に国民や医療や経済の犠牲は仕方がない」という姿勢なの、どうなっているの;;
— kemofure (@kemohure) May 10, 2021
山田風太郎さんが、太平洋戦争の帰趨について、アメリカ人達には神(天上)からくる誇りに帰来する正義感があった。日本は付和雷同性で動いていただけで、天上から由来する正義感は何もなかった。ということを述べていたけど、キャンベルさんだけが日本に愛国的で日本を守る姿勢なの、それを感じたな
— kemofure (@kemohure) May 10, 2021
上記の福田恒存の思想(愛国の為には愛国を超えた天上からの視点が必要)は、起源的にはカール・バルトに拠っていますね。教会は国家を超えた存在であり、国家の下になく、国家が誤るときは正さねばならないという反ナチスのレジスタンス宣言の意味合いの強い宗教宣言「バルメン宣言」など。
— kemofure (@kemohure) May 11, 2021
「こうした『終末論的な留保(天上の神の国から現在を見る視点)』からすれば、国家は、常に革新されるべきものであり、キリスト者は未来に開かれた歴史形成の責任を負っているのである。主張命題は、最後に、いま一度、国家への限定を加えてこう告白する」(神の愉快なパルチザン)(続)
— kemofure (@kemohure) May 11, 2021
(続)「それは限定された信頼と服従しか要求することはできない。それを越えて国家が全面的・絶対的な服従を求めるとき、『万物を支えたもう御言葉の力』にたいする無条件的な「信頼」と「服従」とを妨害し侵害することにならざるをえない」(続)
— kemofure (@kemohure) May 11, 2021
上記引用は、「カール・バルト 神の愉快なパルチザン」(岩波書店)より。福田恒存はこういったメタ視点がない愛国は全面的な従属に堕する為、真の愛国ではありえないということを述べていますね。福田恒存はチェスタトンの影響を受けており、天上(メタ)の視点を齎すものとしてのキリスト教を評価した
— kemofure (@kemohure) May 11, 2021
1933年にナチスはドイツで政権を掌握した、講義の前にアドルフ・ヒトラー総統への敬礼をもって始めることに、ボン大学のカール・バルト教授は拒否した。そこで、1934年4月30日に、バルトはボン市警察局に召還されて尋問された。5月26日には一時的に監禁されたが、バルトはそれに屈せずに、5月末に、告白教会を強化するためにドイツ全体レベルの会議を招集することを提案した。その結果、5月29日から31日まで告白教会の第1回全国告白会議がバルメンで開催され、バルトが起草した宣言が5月31日に採択された。それが、バルメン宣言である。
1939年9月の第二次世界大戦の勃発に対して、バルトはナチスを神学的に批判した。思想だけでなく軍事面でもナチスの脅威から防衛するべき、という考えに至って、1940年に在郷軍人の資格でスイス軍に入隊する。このとき彼は54歳であったが、熱心な軍務の取り組みにより監視・警戒を行う歩哨の任に就いた。しかし上官への敬礼を忘れ、危うく懲罰房に送られそうになるというハプニングを起こしている。戦争が終わりに近づいたころ、以前のナチスへの攻撃とは反対にドイツ人の友であると宣言した。彼らの進んだ道は看過できることではないが、戦火が収まればきっとやり直せると信じていたからであった。1945年8月にバルトは破壊されたドイツを訪問、マールブルクのブルトマンを訪ねたほか、援助に奔走した。1949年以来、西と東に分断されたドイツの政治的な和解について語り続けたほか、ドイツの再軍備と反共産政策について批判した。しかしこれによりソビエト連邦とアメリカ合衆国、ドイツの知識人からも批判・非難の矢にさらされた。苦境に陥ったバルトを弁護するかのように1952年に英国女王から自由のために奉仕した人物としてメダルを授与された。
ナチスと戦い、ドイツを愛したカール・バルトの思想(天上は国家の規範を超えている、人は国家に全面的に従うのではなく、国家を超えた天上が齎す良心によって生きる)と同様のことを後期アーレントはたびたび述べているので彼女への影響があると思う。アーレントは、宗教要素のないバルトって感じですね
— kemofure (@kemohure) May 11, 2021
「人間であるということは、神の前での応答責任をとることを意味する」(「使徒的人間カール・バルト」講談社)
— kemofure (@kemohure) May 11, 2021
カール・バルト「つまり、あなたは、(神によって)生きることを許されているのである!生は神から与えられた自由である。生への意志は、この許された者の意志である」(キリスト教倫理Ⅲ)
私はこういう考え方を「他人に対して」適用するのはクッソ嫌いです。
例えば、こういう論を使って池江さんを批判してたら「ふぁっくゆー」って感じなのですが
考え方として、「権力に逆らってでも自分が信じるもののために戦う」という時に人ではなく神という概念が想定できるのはとても大事だなと思います。
我が国では、クーデターの際に天皇が持ち出されていましたが、
「天皇」もなく、そして「神」もないわが国で、果たして自民党政権という多数派にどう立ち向かうか
今の世の中がおかしいと思った時に、少数派としてどう抗議の声を上げていくのかそのあたりの考え方はとても大事だなと思います。
ネットで目立つ社会運動とかだと「反・~~~」というだけでは何かと過激化・カルト化して嫌悪される傾向が強いですよね。
海外から輸入した概念でも、日本に持ってくると運動家がすぐ利己主義に走ってしまう(というかそういう人がすぐ海外の概念に飛びつく)印象があります。
「反~~」でも輸入概念でもなく、我々日本人が新しい考え方を打ち立てていきたいとなった時に、その柱となるものはどうやったら作り出せるんでしょうかね。