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発達障害

「アスペル・カノジョ」 発達障害者のサポートで一番重要なの思いやりではない。むしろ思いやりを強調する人間が一番発達障害者を差別しがち

アスペルカノジョ10巻より。


アスペの私が書いてるブログを見てくれてる人はよくおわかりかと思いますが、
「アスペタイプの発達障害者とつきあうのほんと面倒くさい」ということをものすごく丁寧に描いてくれている。

私はどうでもいいことでも外界から刺激を受けてしまうと
いろんなものをスルーできず思ったこと全部書いて思考も文章もぐちゃぐちゃになってしまうので
それをちょっとでも整理整頓するためにブログを書いてきました。


リアルではこの思考のグチャグチャぶりから思ったことを上手く伝えられず変人扱いされがちで
仕事では相手の話をその場で聞き取って理解することがとても困難で、長時間の会議ではいつも疲れ切ってしまう。
文書でのやりとりはリアルの会話よりはましであるがやはり人よりも時間がかかり効率が悪いと見切りをつけられてしまう。



そんな感じで自尊心が摩耗していく中で
「せめて一人でもいいから自分の考えてることを理解してほしい。
 本当はこういうことを考えてるんだよってのを見てほしい」
みたいな気持ちでブログをはじめて、理解してくれる人がいるのがうれしくて記事を書いてきたけれど
このマンガを読んでいると、私の選択は間違っていたのではないかと感じて仕方ない。



そもそも私のような人間はやはり刺激の強いネットなどやるべきではないのではないか。
限られた人間関係を大事にして、静かに生きるべきだったのではないか。




そんなことを考えてしまいます。




もうすぐ40歳になる私は、これからの人生をどう生きていけばいいのだろう?




発達障害の子供を持った家庭で必ず言われる「育て方が悪かった」「家族の思いやりや努力が足りなかった」というやつ

「頑張ってないよ。全然足りなかった。家族でもない横井さんが恵を元気にしているのを見たら
 頑張ったなんてとても言えない。私たちはもっともっと思いやりが必要だった」

「光とともに……」でも「どんぐりの家」でも、家族が周りの人から同じようなことをいわれて傷つくシーンがあった。


「アスペル・カノジョ」では母親自身が、この言葉を内面化してしまっていてよりしんどさが増している。


ヒロインである斉藤恵について

斉藤恵は子供のころから発達障害(特にASD傾向)が強く、家族ともコミュニケーションがうまく取れなかった。

彼女の育った米子市では空気を読めない人間に対して周囲のあたりは厳しく、
学校でも小学生のころからずっといじめにあっており、中学校からはそれがさらにひどくなった。
斉藤恵はそれに抵抗するべく暴行事件などを起こし、家族は何度も苦しんだ。

斉藤恵の父親は、まだイクメンなどという言葉すらなかった時代から育児に参加するほどに家族を大事に思う男であった。
しかし、それ故に「家族とはこうあるべき」というイメージにとらわれており、発達障害の斉藤恵を受け入れることができなかった。
努力をしても一向に良くならない恵を悪魔と呼び、家庭内で暴力を繰り返し、犬小屋に閉じ込めることまでして自尊心をボロボロにした。
母親はそういう娘を見ていて心を痛めていたが父親が怖くて恵を救うことはできず、兄は父親に同調して恵を攻撃した。

父親は、娘を悪魔と呼んで暴行をふるいつつも、父親の義務として恵を養い続けていたが
斉藤恵は何度も自殺未遂を繰り返して、父親を否定し続け、そして18歳の時に家を飛び出していった。

その後主人公である横井と同居しながら、少しずつ回復していく。




発達障害との娘とのコミュニケーションがうまくいくかいかないかは、「思いやり」の問題なのか?

そんな父親は、恵が家を飛び出した後に病死する。


恵みが葬式の場に訪れると、兄である弘樹は
「お前がいなかったら親父はもっと長生きできたんだ。どれだけお前が親父を苦しめたかわかってんのか」と恵みをなじる。



しかし、ずっと恵みのことで罪悪感を感じてきた母親は兄を制する。
「弘樹。被害者のふりをするのはもうやめよう。
  私達は家族のルールをお父さんに合わせて作った。
 だからお父さんが起これば怒られた方が悪いって判断していたよね。
  お父さんは自分が作ったルールは誰にでも守れるものという思い込みがあった。
 でもそれはめぐみが生まれる前に作られたルールだったから、それで苦しんだのはお父さんの自業自得だったと思う」


当然だが兄はそういわれて納得できるわけがない。

「でも、他の奴らには通じることなのに通じないひとりのためにこっちが合わせるなんておかしいだろう?
 それに、俺たちだって全部突き放してたわけじゃないだろう!頑張って理解しようと努めただろう!」


ここで母親は自分たちは全然頑張ってなかった。思いやりが足りなかったと反省しようとする。

「頑張ってないよ。全然足りなかった。家族でもない横井さんが恵を元気にしているのを見たら
 頑張ったなんてとても言えない。私たちはもっともっと思いやりが必要だった」


という流れです。



本作品でははっきりと「思いやり」よりも大切なものがあるし、思いやりを中心に考えてはいけないと明言してくれていて助かる

これに対して主人公がこう返している。


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「いや、その考えも結構危ないです。
 斉藤さんのサポートに必要だったのは思いやりではなくて情報と想像力です


「情報といっても障害の知識ではないです。斉藤さん個人の情報です。
 あと想像力が必要というのは、人間相手ですから個人個人で対処法も違います。
 相手の種類痛みの種類が推察できないといけないんです。
 その際は、予備知識が邪魔になることだって多いんです。あくまで斉藤仁型の発達障害なので


「情報を得るのは大変なので結果的には思いやりが必要になります。
 しかし、まず情報と想像力が大事で、実行のために思いやりも必要になる、ということと
 思いやりさえあればサポートができるという考えでは全然違うんです。
 後者の考え方だと傷だらけの空振りになってしまいます」




「思いやり」みたいなフワッとしたものに価値を置いてしまうと、うまくいってないときに「思いやりがない」と責められるのが怖くて逆に相手を責めるようになる

ちょっと待てよ。なんでこっちがそこまで考えなきゃならないんだよ! 
 俺は俺で生きるのが大変なのに。他人のトラブルまでフォローしてる余裕なんてないんだよ!
 家族だからってそこまでしなきゃいけないのか!?」


「それはまっとうな不満だと思います。
 別に障害とか関係なく他人のために身を削る義務はないです
 俺だって彼女が俺の作品の読者じゃなければ受け入れられなかった入れなかっただろうし」



「ただ、情報は大変さを大幅に軽減してくれるし見えなかったものを見えるようにしてくれます。
 そうやって、情報を持つことでコミュニケーションの難易度が下がれば
 手を貸してくれる人も多くなります。それだけのことなんですよ。
 だから情報を大事にしましょうと言っているのです」



「つまり、悪いのは情報のない親父の方だって言いたいのか?
 それは結局こっちが悪いって言いたいんだろう?」



「……望まない人に提供するとこんな感じで苦言に変換されてしまうんだな」



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<ここから先は攻撃性が強すぎるので、後でnoteにでも移転します>

アスペル・カノジョは読んでいると、今まで自分の人生で受けてた苦しみとか悔しい思いがよみがえってきて暴力的な感情が引き出されるので危険なんだよなあ……

私もこういう理解者が欲しかった……そういう理解者を求める努力を怠ったことをいまさらながら後悔している。


このように「思いやり」の大切さを強調すればするほど、「発達障害者は思いやりがないからいじめても良い」につながりやすい

この「思いやりが大事」ルールは最初は発達障害者にやさしいように思いますが、長期的に見たら発達障害者差別につながります。
なぜなら、「思いやりがない奴はけしからん」ルールだと発達障害者はめちゃ不利だからです。「周りに合わせられない」→「気が利かない・空気が読めない」→「思いやりがない」と判断されやすく、今の「思いやり万能主義」では「いじめても良い悪」になりがちです。


実際はてなブックマークにいる、明らかにおかしなコメントを言ってる人たちいますよね。同類なのでなんとなくわかりますが、少なくない割合で発達障害者の人だと思います。勝手診断はできませんがこういう人間はまじで普通の人から見たら異常と思われることを平気で言います。こういう人たちに思いやりで接しても無駄です。安易に「障害者差別はよくない」といって受けれて自由にさせると問題行動を起こします。ちゃんと個別に対話のプロトコルが必要になります。


こういうのを「発達障害者差別はよくないから平等に受け入れよう」とか「思いやりの心で受け入れよう」っていう善意だけで考えてはだめです。悪気はなくても迷惑をかけることはあるので、そういう迷惑が起きる場合はちゃんと対応しないといけないんです。こういう対応無しに自由にさせていくと、抑えきれないレベルでヘイトがたまっていきます。そして、「こういう連中は迷惑だから排除すべし」ということになります。というかすでにそうなりかかってますよね。



というより、基本的に発達障害者は客観的にみるとカッとなると他者をバカにするような発言をすぐやってしまいます。私もしょっちゅうやってます。私のブログ見てる人ならご存じですよね。投稿前に直せるところは直すけど後で後悔することよくあります。


「思いやり」とかいう中途半端な言葉で、無計画に発達障害者を自由にさせて、ヘイトを溜めさせて、最終的にははてな学級会崩壊ってのは完全に「聲の形」じゃないですか。そういうのはだめですよほんとに。



情報や訓練を軽視して「思いやりを大切に」というのは健常者の怠慢の言い訳に過ぎない。別に何もしなくていいからせめて余計なことをしないでほしい

普通の人が「思いやり」を強調して知識や情報を軽視するのは「その方が楽」だからです。

「思いやり」というのは「自分たちの感覚でよいと思ったことをする」と言ってるだけで実は何の努力も要らないんですね。

「情報や想像力」は相手を理解する努力がいるので面倒なのです。

んで。個人的には普通の人が発達障害者のために理解したり努力するのが嫌だってのは別にいいんですよ。むしろそれは人間として当たり前です。

なら「思いやり」みたいな言葉を使って自分を人格者みたいに取り繕うのやめろボケって言いたいだけ。

わかんないしわかるつもりもないくせに、話題になった時に人格者ぶろうとして「思いやりが必要」とか「自分は自分なりに良いと思ったことをやった」言い出す自己満足オナニークソ野郎のせいで努力してもうまくいってない当事者がどんだけ追い詰められてると思ってんだ。頼むからやめてくれっていう気持ちになります。


togetter.com

「思いやりですべてが解決する世界」は努力が嫌いな怠慢な人には理想なんでしょう。

差別はいけないって言ってたら差別が亡くなるかのような安易な世界観は考えるのが苦手な人には都合がいいのでしょう。

そういうのはなろう小説でも書いて自分の脳内で完結してほしい。現実の問題になろうレベルの妄想を前提にしてこういう語りをするのやめてください。


余談 思いやり至上主義のエセ人権派の暴走が一番ひどかったのが「聲の形」だったけど、無知なバカによるお気持ち批判を京アニが完全に無視してくれたのは本当によかった

これは「聲の形」でも描かれていたことですが、何らかの障害者とかかわる時に「仲良くして当然」「思いやりさえあればできて当然」などという前提を押し付けるのは絶対にやってはいけない。あの「聲の形」を見て、石田はいじめっ子だから絶対に許されるべきではないみたいに吹き上がってるやついました。

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togetter.com
そういう人はまず読解力がない上に、無知で、しかも自分の正義を信じて疑わないという最悪の存在です。ネットで人権派ブレて気持ち良くなってるだけの阿呆です。ネットのエセ人権野郎は、自分では何のリソースも提供しないくせに、100点満点ではないという理由だけで現場でやってる人たちを攻撃し、自分たちの方が人権意識が高いと誇ってるだけの偽物ばっかりです。こういう人間に限って、身近で空気が読めない人間がいたら積極的に殴ります。で、だいたいそういう人は発達障害者だったりします。「障害者差別は許せない」「いじめは許さない」といいつつ「でも私のいじめはよいいじめ」を平気でやるような連中です。現実の障碍者にとって何の助けにもならないしクソ迷惑なので目と鼻と口と耳をふさいで海の底にでも沈んでてほしい。差別という言葉を手にするとだいたい人間バカになるという典型例みたいな事件でした。

「無理に理解しようとか受け入れようと努力しなくていい。小学生で受け入れるなんてのは難易度SSクラスなんだから別物として分けてくれた方がなんぼかましだ」という感想の人も当然いると思います。私もこっち派です。100点満点なんかいらなくて、無理をして子供たちに取り返しがつかない傷が起きないようにすることの方が大事です。現場を知らないで100点満点要求するなら、消費税10%あげて教育現場に投入するのに賛成しますくらい言ってほしい。

要するに聲の形は「子供に無理な要求を押し付けるんじゃなくて大人が対応するべき話」です。プロであっても障害者との付き合い方は難しいのに、また情報も想像力も不足している子供たちに押し付けたらどうなるかという話です。1話は大人の無能によって起きた悲劇であり両方にとってスティグマになってしまった話です。