文章を読めない人かどうかは文章を音読させると大体わかりますよ。読めない人は文章にない助詞や接続詞を勝手に足したり、逆に省いたりする。読めない漢字が出てきた時に詰まったり辞書を引こうとしたりせず、勝手に飛ばすか造語する。塾講師のバイトをしていた時にベテランの先生に教わりました。
— 松下哲也 (@pinetree1981) January 12, 2022
つまり、読めない人は、この世に存在しない文章を自分で作って、その文章をさらに独自に解釈しているわけだから、著者はさすがにそこまで責任持てないわけです。これを改善するのは教育の問題です。
— 松下哲也 (@pinetree1981) January 12, 2022
す。
— K.U …… (@RnR_Equipment) January 12, 2022
このような軽度のディスレクシアの場合本人も気がついていないことが多いので障害の診断を受けるように勧めてあげてください。
ディスレクシアは軽度も含め日本人に8%いると言われています。
言葉の解像度の話。
— 述ぶ (@Noberu_Nobu) January 12, 2022
高画素の映像は、限りなく現実に近い情報を持つ。低画素の映像は、情報の多くが抜け落ちる。
古いゲームは低画素であり、角ばった勇者や敵の姿は、遊ぶ人の想像で補われていた。その分、人により様々な世界が頭の中に作られた。
そして、それと同じことが言葉でも起こっている。 https://t.co/NNxQN1DC31
この方の経験談が分かりやすい。読めない言葉を調べず、訊かず、自分の想像で補ったり感覚で削ったり。
— 述ぶ (@Noberu_Nobu) January 12, 2022
読めないとき、「読めるようにする」のではなく、「読めないまま凌ぐ」という姑息な対応を続けた結果、「書かれていることを理解できない」「書かれていないことを創作する」人が育つのだと思う。 https://t.co/2efifqEcbt
言葉は時代や話者によって異なり、同じ言語であっても完全に一致することはあり得ない。
— 述ぶ (@Noberu_Nobu) January 12, 2022
それでも互いに言葉の解像度を充分に上げたなら、生じる齟齬は極めて小さくなる。
自分の理解が正しいか、言葉を過不足無く受け止めているか。今の画質で満足している自分は、真に他者と同じ世界を見ているか。