頭の上にミカンをのせる

「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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自分が何を好きであるかをしっかり表明している人はそうでない人よりも信頼できる

私は以前からTさんのことは割と好きなんだけど、Aさんのことが昔から好きになれなかった。



・「なんか気に入らないことがあったらすぐに見下してマウント取りながらでないとしゃべれない」ところとか
・「とりあえず社会に適応しない自分にこじらせたプライドを持ってるところ」とか
いろんな意味でよく似てる。



なのに、なんで好き嫌いが分かれるんだろうと思ってたんだけど単純に私は「自分はこれが好きだ」ってのをちゃんと言える人が好きなんじゃないかなと思ってきた。



思い返すと、Tさんはいろんな意味でマイナス要素が多い人だったけれどそれでも彼が好きなものと私が好きなものの話を通じてそれなりに交流することができていた。
しかし、Aさんとは今のところそういう可能性を全然感じられない。なぜかというとAさんは他人を批判することはあっても自分が何を好んでいるのかを表に出そうとしないからだ。
他人より下に見られることを嫌い、自分を隠したまま他人を批判して自分を上げようとするが、これは悪い意味でカッコウつけすぎである。



このあたりがどうもネックになっているようだ。



なんとなくなんだけど「好きなことを明確に語れる」というのは年齢が上がるごとにハードルが上がってきて、その分重要なことなんだと思うようになってきた。
年齢が上がってくるごとに「この程度で私は〇〇が好きっていってよいのか」みたいな変な躊躇も出てくる。そもそも好きということを他人にさらしてそれを見られること自体がちょっと気恥しい気持ちもある。でも、だからこそ同年代の人とがはっきり「好き」を口にするときはそれなりの真剣さとか、人格みたいなのが見えるなと思う。


久々にとても落ち着く雰囲気で人と会話ができて、人間関係とはかくありたいというものを思い返すことができた

昨日久々に関西での知り合い二人と東京で再会した。

二人とも私より年上なのにとある歌手が大好きで、昨日はそのコンサートを見に来ていたのだ。二人とも大人なので押し付けることがないよう控えめに、しかし熱さが伝わるように自分が好きなものについて語ってくれる。そして、自分にそれだけ好きなものがあるから、こちらの趣味も軽んじたりしない。だから話をしていて、とても心地よかった。こういう会話ができる間はまだ生きていたいなと思う。



意見の相違があっても、根本的なところで他人を尊重できる人はこちらも信頼したいし敬意を払いたくなる。お互いが敬意を払っている関係だと、心理的安全性がとても高い。久々すぎて忘れてたけど、こういうやり取りができる人間関係がないと人間の精神は腐ってしまう。


最近の自分、明らかに人として腐ってましたわ。




そしてこういう心理的安全性ある関係を築くために、お互いに好きなものを差し出す行為は結構重要なことなのかもしれないと思う。



特にネットでの交流という点で考えるならば、社会学の難しい本をたくさん読んでるとか、多少リテラシーがあるとか、そういうことよりも他人から笑われるかもしれなくても、自分が何を大事に思っているかを表明できることのほうがよほど難しくて勇気もいって、でも大事なのではないか。



今の自分はそういう風に思える。


とりあえず今後は「自分が何を好きか」がはっきりしてる人と付き合いたい

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コロナの恐怖で精神すり減らし

はてなで殺意を伝染させる魔物に襲われ続け

株クラでいろいろと疑心暗鬼に陥り

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チェニキ状態になってたけど



基本的には寂しがり人間なのでやっぱり人と仲良くしたい。

まあこれはこれで「好きなこと」でつられて人に騙されそうだけど……。
もう自分が楽しければいいや。


もっとちょろい人間になりたい。