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「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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「虎の威を借りる狐」の話~なぜ「党派性」が強い人は断言的口調で語り意見を絶対に修正できないのか~

もう100億回は書かれていることだと思いますが「自分の頭で調べたり考えたりしない人ほど、断定的な物言いをする」という傾向がどんどん強くなっていきました。

2014年段階で「自分で思考しないでただ人の言ったことを通過させるだけのBOT人間」という存在は周知の存在となっており「はてな村奇譚」でも語られていました。

最近はさらに悪化しており、内田樹が「虎の威を借りる狐の意見」として表現したよりおぞましいものの影響が強くなってきているように思います。「虎の威を借りる狐」たちが、そのお手軽さゆえに発言量の多さによって「虎」を駆逐するようになってきている気もします。



というわけで、古い本ですが「日本辺境論」を振り返ってみましょう。

この本が出たタイミングが内田樹が輝いていた最後の時期だったなあと思いますね。


「虎の威を借るキツネ」の話

私たちのほとんどは、外国の人から、「日本の二十一世紀の東アジア戦略はどうあるべきと思いますか?」と訊かれても即答することができない。

(中略)


もちろん、どこかの新聞の社説に書かれていたことや、ごひいきの知識人の持論をそのまま引き写しにするくらいのことならできるでしょうけど、自分の意見は言えない。なぜなら、「そういうこと」を自分自身の問題としては考えたこともないから。「そういうむずかしいこと」は誰かえらい人や頭のいい人が自分の代わりに考えてくれるはずだから、もし意見を徴されたら、それらの意見の中から気に入ったものを採用すればいい、と。そう思っている。そういうときにとっさに口にされる意見は、自分の固有の経験や生活実感の深みから汲み出した意見ではありません。だから、妙にすっきりしていて、断定的なものになる。人が妙に断定的で、すっきりした政治的意見を言い出したら、眉に唾つけて聞いた方がいい。これは私の経験的確信です。というのは、人間が過剰に断定的になるのは大抵の場合他人の意見を受け売りしている時だからです。

自分の固有の意見を言おうとする時それが固有の経験的厚みや実感を伴う限り、 それは滅多なことではすっきりしたものにはなりません。途中まで行ってからいいよどんだり、一度言っておいてからなんか違うと撤回してみたり、同じ所をちょっとずつ言葉を変えてぐるぐる回ったり。そういう語り方は本当に自分が思っていることを言おうとジタバタしている人の特徴です。すらすらと立て板に水を流すように語られる意見はまず他人の受け売りと判断して間違いありません。

これめちゃくちゃ感じるんだよね……。

断定的であるということの困った点は何かと言うと、落とし所を探って対話するということができないことです。先方の意見を全面的に受け入れるか全面的に拒否するかどちらかしかないのです。他人の受け売りをしている人間は、意見が合わない人と両者のなかほどの「両方のどちらにとっても同じ程度不満足な妥協点」というものをいうことができない。主張するだけで妥協ができないのはそれが自分の意見ではないからです


虎の威を借る狐に向かって「すみませんちょっと今日だけ虎柄じゃなくて茶色になってもらえませんか」というようなネゴシエーションをすることは不可能です。キツネは自分ではないものを演じている訳ですから、どこからどこまでが虎の譲ることのできない本質でどこらあたりが「まあその辺は交渉次第である」のか、その境界線を自分で判断することができません。もし彼が本物の虎ならばサバンナで狩りをする時は茶色の方がカモフラージュとして有効ですよ、というような訳知り顔の説明をされたら一時的に茶色になってみせるぐらいやぶさかではないと判断するようなこともあり得ます。でもキツネにはそれができません。自分ではないものを演じているから。

借り物の看板のデザインは自分の責任で書き換えることができません。私達は虎とは交渉ができるけれどキツネとはできないというのはそういうことです。虎ならば自分は虎として何がしたいのかという問いを自分に向けることができます。でも狐は自分は虎として何がしたいのかと言うという受け止めることができません。他人の受け売りをして断定的にものをいう人間が交渉相手にならないというのは、彼が「私は本当は何がしたいのか」という問いを自分に向ける習慣を放棄しているからです。


よろしいですか。ある論点について「賛成にせよ反対にせよ、どうしてそういう判断に立ち入ったのか」、自説を形成するに至った自己史的経緯を語れる人とだけしか私たちはネゴシエーションすることができません。

ネゴシエーションできない人というのは自説に確信を持っているから「譲らない」のではありません。自説を形成するに至った経緯を言うことができないので「譲れない」のです。自分はどうしてこのような意見を持つに至ったのかその自己史敵閲歴を言えない。自説が今あるような形になるまでの経時的変化を言うことができない。「虎の威を借りる狐」には、決して虎の幼児期や思春期の経験を語ることができないんです。ですから、もし他人から交渉相手として遇されたいと望むのならば。他人から虎だと思われたいのなら、自分が今あるような自分になったその歴史的経緯を知っていなければなりません。それを言葉にできなくてはならないのです。これは個人の場合も国家の場合も変わらないと私は思います。


日本人が国際社会で侮られれているというのがもし本当だとするならば、その理由は軍事力に乏しいことでも金がないことでも英語ができないことでもありません。そうではなくて「自分がどうしてこのようなものになりこれからどうしたいのか」を自分の言葉で言うことができないからです。国民一人一人が国家について国民について、持ち重りのする厚みや奥行きのある自分の意見を持っていないからです。それを持つことができないのは私たちが日頃口にしてる意見のほとんどが誰かからの借り物だからです。自分で身銭を切って作り上げた意見ではないからです。

「虎の威を借る狐」は虎の定型的な振る舞い方については熟知しているかもしれませんが、それがどうしてそのような振る舞い方をするようになったのかその歴史的経緯も深層構造も全く知りません。知る必要があるとそら考えていません。だから未知の状況に投じられた時、虎がどう振る舞うかを予想することができないのです。

日本人がどうして「自分たちが本当は何をしたいのか」を言えないのは、本質的に私たちがキツネだからです。私たちは常に他に規範を求めなければ己の立つべき位置を決めることができません。自分が何を欲望しているのかを他人の欲望を模倣することでしか知ることができないようになってしまっているからです

今オープンのインターネットに転がっている意見は9割がこれだと思っています。特にフェミニズムの炎上時に騒いでいる方々はフェミだろうがアンチフェミだろうが99.99%これじゃないでしょうかね。


2つほど例を出しますね。

①ハートクローゼットの件で例えばこういう発言をしている人がいます。こういうのが「虎の威を借るキツネ」ムーブの典型例です。 

id:wuzuki そもそも黒澤さんが批判されたのは、漫画の感想そのものではなく「未成年を性的に見ても良くない?」などの発言やスペースでの言動、そして以前掲げていたブランドコンセプトとの矛盾について等が大きい。

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20220427133614

たとえばこの人に「じゃあ"あなたは"黒沢さんのマンガの感想ツイートそのものは批判すべき内容ではなかったという立場ですか?」と聞いてみましょう。高確率でバグります。あくまで「周りの人がそういう風に言ってるのに合わせてる」だけで自分の主体性がないからです。周りの顔色を窺ってそれに合わせる発言をすることしか考えてないからです。自分の意志だけでは自分の発言の訂正すらできない。全然「自分の言葉」でしゃべってないとこうなります。 ところが、こういう人たち、いざ自分自身の意見を求められるまで、ちゃんと自分は考えて言葉をしゃべってるつもりだったりします。 

こういう事例がたくさんあるわけです。



②もう一つ、自分に直接かかわる最近の話。

「月曜日のたわわ」騒動の際、私はとりあえず自分で本を読んで自分で感想を書きました。

んで、この記事についた感想なんですが、最初のうちは「記事への感想」でとどまっていました。しかし一週間ほどたつと「自分では読まずに、私の記事のリンクをそのまんまツイフェミの人にぶつける」という使い方をしている人が複数名いました。そしてその人たちはツイフェミの人に向かって「お前たわわ読んでないだろ、この記事でも読めよ!」みたいなことを言ってましたが、こちらとしては「いや、お前も読めよ!読んで自分の言葉で語れよ!」ってツッコミたくなりましたね……。 こういうのは完全に「虎の威を借る狐」状態です。
しかも、ひどい人になるとまったく私の記事の主旨を理解してなくて、よりによって青二才のクソtogetterまとめと並べて「たわわはフェミニズム的に正しい物語だ!」みたいなことまで言い出す人が出てきだしました「読解力のない虎の威を借る狐」ほど迷惑なものはない……。

で、さらに困ったことにツイフェミさんはその際に、私の記事を引用した「狐」ではなくて、こちらの記事を批判し始めた。「狐が勝手に誤読した内容」に基づいて、こちらに群れを成して攻撃を仕掛けてくるわけです。 カンガルーならぬ狐と狐が争うだけなら好きにしたらいいですが、私を巻き込まないでほしかった。 

あの時は心底うんざりしましたが、おかげで「虎と狐」のレイヤーの違いは身に染みて理解できたと思います。

これは、鴻上さんも同じことを言ってましたね。

dot.asahi.com

「ツーブロックが適切かどうか」を話したい人と「世間ではどんな考え方が主流か」が大切な人とは、議論は成立しません。後者の人達にとっては「校則の理不尽さ」が問題ではなく「校則の理不尽さをどれぐらいの人が問題にしているか」が問題なのですから、議論がかみあうわけがないのです。

良い意味で「絶望」するためのフレームワーク

というわけで、今後はこういう意見を向けられたときには「虎の威を借る狐」という一つ下のレイヤーで処理することにします。

「誰にを言われても黙ってスルーしろ」というのは私が絶対許せないことであり(この理論いうやつはいじめ肯定していると思ってます)、今までそういう風潮には意識的にあらがってきましたが、はてなブックマーク欄も閉じたし、noteへの移行も進んでいるし、この先ブログは数年かけて終わらせる方向で考えているので、もう意地を張るのはやめにします。

Twitterやはてブのおかげで「100字や140字サイズで思考し、発言する」ということが当たり前になってもう15年とか20年という時間が経ちましたが私はいまだにこれになじめないでいます。何かを考えるためには100字や140字というスペースは足りなさすぎるからです。その思考スペースで言えることは「ごはん美味しい」とか「マンガ面白い」「ゲーム楽しい」みたいな生理的な快楽や不快の話までだと思う。普段から考えていることを140字に収めることはできても、最初から考える際に140字のスペースはあまりにも狭すぎる。Twitterは思考を介さない実況向きのメディアであると思うし、Twitterではごはんやゲームの話をしている人のほうが賢いと思うし、インスタとかTikTokが流行るほうがインターネットとして健全だよねって気持ちがどんどん強くなっています。



そういう意味で、去年読んだ「ヒロインは絶望しました」のラストは自分にとっては最高の終わり方だったと思います。