頭の上にミカンをのせる

「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

最近のこのブログのお気に入りは「アークナイツ」です
アークナイツ
kindleセールの紹介
新NISA解説ブログ
発達障害

何かを社会的に支援するために特別な理由を求めると、「理由がないやつは差別してもいい」という思考に陥るので気を付けたい

togetter.com

うーむ。ありがち。

なにかのマイノリティの立場を擁護する活動をしていると、どうしても自分たちの行動や立場を正当化する必要が出てくる結果として「立場の正当性を主張できない人間」の権利を軽視する考えが出てきがちなんですよね。


その落とし穴に最も深くハマっているのはLGBTqみたいなジェンダー絡みの界隈の人ですが、それ以外にも就職氷河期の人とか発達障害者でも同じようなことやらかしがちです。例えば「俺は発達障害と毒親とFランと立憲民主党とブラック企業で苦しんだから世間は俺に優しくするべきだ」と自分の境遇や主張を正当化する一方で、正社員の人が苦しさを訴えると「甘え」と断じ、家庭の悩みを訴える人には「俺よりましだ」としてその苦しみを否定する、そういう人が実際にこの世に存在する。というか結構たくさんいるということを私は知ってます。

「社会的弱者はかわいそうで守るべき存在」みたいなイメージで考えてるとだいたい誤ります。社会的弱者はクズみたいな人いっぱいいますし、そういう人は「ぜんぜんかわいくないし可愛そうにも思えない」ですが、それでも社会のために助ける方が良いのであれば助けます。それが「制度的社会福祉」という概念です。

www.tyoshiki.com

基本的に社会福祉には「残余的福祉」と「制度的福祉」の考えがあり、素朴な感情では前者をイメージしがち問題

これについては理念としてはわかるけど本音としては抵抗があるという人が多い気がします。

(原則)mazmot ぶら下がってるTweetが完全に重要なポイントを逃してる。「本人が悪かろうと助ける」。ここが重要やで。下手に物語とか要らん。必要があれば助ける。以上。それが社会福祉。

(本音)poipoi3 本人が悪くても貧困にあるなら助けるって本心から思える人は、育ちが良くても悪くても少数派なのでは。福祉はそういうものだってお題目は理解できるし表立って反対はしないけど、モヤモヤは残る

という感じだと思います。

これについて、抽象的概念が理解できる人はこういう感想を持つのかもしれません。

kuzumimizuku 「理由を問わず(線引きをせず)助けるのが福祉(であるべき)」という(自分の感覚では当然の)話に帰着するまとめかと思ったら「助ける理由(物語)」を求める人たちのツイートもまとめられていて怖くなった。

これが当たり前と感じられることは素晴らしいことですが、かといってこの感覚を当たり前にするのは難しいと思います。


これは「理想と現実」みたいな話じゃなくて、そもそも「社会をどういうモデルで見るか」という違いです

最近障害者について考えるときに「個人モデル」と「社会モデル」というモデルの違いによって考え方が大きく変わることが知られてきていますが、社会的福祉についても、モデルによって考え方が変わります(※なお障害の社会モデルは問題点も指摘されており、どちらかが100%正しいという話ではありません)

だいたいの人が素朴な感情で認識するのは「残余的社会福祉」となります。

要するに「福祉へのリソースは限られている」→「まずは家庭や職場などでやって、どうしてもカバーできないところ(残余部分)だけを行政が補うのが社会福祉だ」と考えているということです。

困ったことに自民党はこの考えがめちゃくちゃ強くて、今でも介護の問題などは可能な限り家庭で解決すべしという姿勢が基本になってます。長い間自民党政権だったので結構この考え方は人々にも浸透していると思います。 さらにいえば、この考えを延長すると「自分たちが身銭を切って弱者に施すのが福祉だ」と考えたりします。

みなさんはどうですか?こちらのモデルで思考してませんか?


この考え方だとぶっちゃけ「福祉というのはコストを払ってだらしない人や企業を助けるもの」みたいになってしまいます。そのせいか「社会的に望ましい者だけを助け、そうでないものは冷遇してもよい」という考え方が導かれがちです。

だって主語は自分たちだから。自分がお金を出しているんだからどういうサービスを提供するかも選ばせろとなりますよね。生活保護バッシングも、こちらのモデルだとそれなりに正当化できます。



これに対して、国連の定義では制度的社会福祉の面が強調されます。


主語は社会です。「社会サービスの質」をいかに上げるかということが課題なのです。自分たちが済んでるための社会のサービスレベルを上げていくことは社会にとって良いからやるのです。そのためにお金を支払うわけです。高税だけど高福祉として知られる北欧モデルとはそういうことです。現在の日本とは発想そのものが異なります。この考え方の違いを抜きにして北欧モデルと日本を比較するのは無意味です。

こちらのモデルでは当然市場原理や家族システムとは違った基準によって供給される必要があります。そのため財源は国民からの税金以外にも多額の国債でも賄われます。単なる社会的余力の振り分けではないのです。


身近にあるようでいて、成り立ちから目的まで、普段我々が慣れ親しんでいる家庭システムや市場原理と異なる固有の論理があるのですね。


こちらの考え方だと、社会福祉は経済成長などと両輪の立ち位置にあります。ただのコストではなく成果につながります。社会が一定の格差を許容できるのも社会福祉あってこそというイメージになります。


まぁぶっちゃけ難しいので、細かいことは置いといて「普段の考え方とは違った考え方が必要である」という点だけ踏まえておくと良いと思います。私もこの考え方の違いについてすべて理解できてるわけじゃありません。

www.tyoshiki.com

ネットは素朴な感情論が強いため、非常に社会福祉の議論と相性が悪いです

「制度的社会福祉」という概念を一応頭に入れておかないと、「社会にある限られた残余部分の奪い合い」にという考え方に陥り、不必要な対立を生みやすいかなと思います。社会福祉って老人とかかわいそうランキング上位者を優遇するための魔法の聖杯ではなく、間接的に国民の生活を守るものであり、必要であれば理由を問わず行われないといけません。


www.tyoshiki.com


どうしたらいいかは私ごときに答えは出せませんが、とりあえず「限られたパイの奪い合い」の思考に陥って、自分を守ろうとするあまりに他者を否定するような思考を持たないように気を付けたいところです。