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「命令されなきゃ、憎むこともできないの?」(ブルーアーカイブ#3 エデン条約編3.私たちの物語)

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祖父が死んだ。あまりにもあっさりとした別れでまだ実感がわかない…

祖父が亡くなりました。


1月初旬に帰省したときはまだ元気でした。



最後までしっかりした人で、およそ晩節を汚すという言葉とは無縁でした。ボケとも無縁で、最後に会った時も受け答えもはっきりしていました。ニュースの内容もしっかり把握してぽつぽつと感想などを言っていました。




祖父より先に祖母が死にました。そのあと6年間ずっと孤独だったと思います。しかし泣き言ひとつ言わずに祖母を弔いながら、犬の世話をして一人でずっと過ごしていました。誰かの世話になりたいとは一言も言いませんでした。足腰が弱ってきて、犬の世話ももうできなくなった時初めて連絡をしてきました。自分ではなく犬のために連絡してきたのが祖父らしいと思いました。(犬は叔父が引き取りました)



そのあと寝具の掃除洗濯や入浴の補助が必要となったので私の両親が引き取ることになったのですが、長年住んでいた家を離れることになっても特に拒否することなく静かに受け入れて、ほとんど何も持たずに父の家まで来てくれました。食事などの準備が別に必要だったり、段差がある場所などで多少の介護は必要でしたが徘徊などは一切なく、手間がかかるという感覚はほとんどありませんでした。常に家族を気遣って静かに過ごしていました。デイサービスを嫌がることもありませんでした。祖父はあるがままを受け入れているようでした。今まで頑張って長い間生きてきて、先もそう長くないのはわかっていただろうからもう少しわがままを言ってもよいのにと思うくらいでしたが「お前たちには感謝しているし、これ以上望むことはない」といっていました。



本当にただ静かに、毎日祖母を祀って過ごしていました。



最後に会ったときは「今日もご飯を食べられた。今日も一日進むことができた」といっていました。



私には祖父がどういう心境にあったのかはいまだにわかりません。どうやったらこんなに死を受け入れて静かに過ごすことができるのかわかりません。少なくとも私には絶対に無理だと思いました。多分死の恐怖に耐えられずにみっともなく「死にたくない。このまま死にたくない」ってみっともなく喚き続けるか心を手放してしまうのではないか。ぼけてしまうのではないか。





そう思いつつも、晩年の祖父の姿には強いあこがれを感じずにはいられません。私も、できるならこうやって穏やかに死を迎えられるような人間になりたい。そう思います。



1月に帰省した時、若かったころの祖父の写真を見ました。どの写真も笑顔でした。実際に子供のころから、私の記憶の中の祖父はいつも笑っていました。自分を叱るようなことは一度もなかったと思います。



祖父はよく自分には学がないからお前たちが立派な大学を出たことが誇らしいと言ってくれていました。しかし戦争からかえったあと、家族を養うために農家でどんなものでも作ってたくましく生きてきた祖父の方がはるかに立派だと思います。


祖父は80を過ぎて農家を引退した後も健康で、毎日腕立て伏せを30回続け、毎日犬の散歩がてら、周りの家へのあいさつも欠かしませんでした。祖父は人とかかわるのが好きでした。右翼とは程遠い人でしたが、毎年退役軍人の方の集まりを主宰して人をもてなし続けるなど、人に囲まれる人生を送っていました。年末年始に祖父の実家に帰ったときはいつも来客があり、子供のころは田舎ながらの広い家でその人たちが持って帰ってきたお土産を食べるのがとても楽しみでした。



最後にお別れした際には「GWの時にまた会えるのを楽しみにしてる。」と笑顔で手を振ってくれていました。なんとなく、まだ会えるんじゃないかと思っていました。「今度会う時までにはやせた姿を見せる」と約束していたのですがその約束は果たせませんでした。



最後の最後にもう回復の見込みがないという状態で意識を取り戻し、その際に電話でみんなに声を聞かせてくれたそうですがたまたま私はその時に移動していて最後の声を聞くことはできませんでした。




祖父の事を尊敬していました。
私は祖父のために何もすることができなかった不出来な孫でしたが、それでも最後にもう一度だけ声を聞きたかった。
ちゃんとお別れを言いたかった。




とても悲しいです