何も語りたいネタがないのでハックルさんのネタの続きでも。
- ハックルさん本の19章は「女子高生の無駄遣い」のヤマイさんっぽくて好き
- 初手から間違った方向に剛速球を投げてくる……
- 「推測」で理由付けをする前に、まずここで疑問を持って立ち止まって事実を確かめないといけない……。
- もう一度立ち止まるチャンスはあったのだけれど……
- ダメだわ、立ち止まるも何も、最初からもうその可能性を排除してしまっていたわ……
- このように、心の中にワセダを飼って「ボケに対してひとつずつツッコミを入れるゲーム」のような感覚で読めば結構楽しめる本
- でも、自分もこれと同じことをやらかしてんだよなあ……
ハックルさん本の19章は「女子高生の無駄遣い」のヤマイさんっぽくて好き
ぼくの妄想を書き連ねた「フィクション」にするつもりはなかった。
「歴史」と銘打つ以上、事実を無視したり、憶測を暴走させるようなことはしてはならない。
事実はきっちりと踏まえながら、しかし隠された相関関係が解き明かされ、現実にある「ゲーム」への理解が進むものにしようと思った。
「ゲームの歴史」は作者の意気込みに反して、「妄想を書き連ねたフィクションであり、憶測を暴走させた作品」という評価になりつつありますが、その中でも特にひどいのが15章と19章です。ポケモンの話が出てる9章もかなりツッコミどころが多いですがこの2つがぶっちぎりでやばい。
この2つの章は「ヤマイ」さんもびっくりレベルでぶっ飛んでて面白いです。
#女子無駄#ワセダ
— カラドボルグ2 (@karadborugu2) 2019年8月17日
「それ以上、先生を置いといて山頂を目指すな」
「まだ先生が乗車していないのに急にアクセルを踏むな」
ワセダのツッコミが俺に刺さりすぎて、笑い死にそう🤣🤣🤣🤣🤣
ワセダ、大好き!! pic.twitter.com/rTErATUsJI
初手から間違った方向に剛速球を投げてくる……
ところで本書でのインディーゲームの流れに日本という国はほとんど登場しません。1990年代まであれほどゲーム大国でありプレイステーション2の大作ソフトで大きな市場を形成した日本でしたが、実はこのインディーゲームの発展には完全に乗り遅れてしまったのです。
海外でインディーゲームが急速に市民権を拡大していたこの時期、日本ではゲームメーカーもユーザーも、そうした動きには目もくれずずっと日本国内向けのガラパゴスゲームを作り続け、また遊び続けていました。
「世界中の動きだけがこうなのに日本だけが明らかに違う」みたいな推論が出たときは、9割間違ってるので気を付けたいところです。最初の立ち止まりポイント。
もちろん日本にもギークと呼ばれる人はたくさんいました。しかし彼らは個人ゲーム制作というムーブメントにあまり興味を持たなかったのです。日本は漫画の同人誌のような個人創作はむしろ盛んなのになぜ個人のゲーム制作には行かなかったのでしょうか?
二度目の立ち止まりポイント。こういう風に「なんか上手く説明できないなあ」ってなったときはもう一度よく考えなおすチャンス!
「推測」で理由付けをする前に、まずここで疑問を持って立ち止まって事実を確かめないといけない……。
推測するに、日本のゲームユーザーの傾向として一流メーカーの重厚長大なゲームありがたがる気風が当時も今も強いからではないでしょうか?日本は長らく和をもって尊しとなすという価値観を大事にしてきました。集団の協調を何よりも優先するということです。特定の個人を愛するよりもその個人が属している組織を愛する。ですから個人よりも企業にファンがつきやすい傾向にあります。おかげでどれだけ有名になっても「宮本茂のファン」よりも「任天堂ファン」の方が多いですし、アイドルでも個人よりもグループ全体のファンになる人の方が多いのです。
推測じゃなくて確かめて!
しかもいきなり日本人の価値観とかの話に!ハックルさんいい加減、無理やり「脳科学のうんちく」と「実は日本人の気質はこうなんです」っていう2つで何でも説明しようとするのやめようよ! これ持ちだしたら、なんでも「それっぽく」説明できちゃうじゃん。これ日本人だけがインディーゲームを作った理由だったとしても「集団の協調を何よりも優先するから、集団に合わない人が」とか言えるじゃん。
ですから、個人もしくは少人数が独立的に作ってるインディーゲームの製作者を日本人ゲームはどこか下に見ている部分があったと思います。
言われないの罪で日本のゲーマーが差別主義者にされてしまった…っ! もしこれが事実だったとしても言い方! 「メーカーによって保障されてないゲームを怖がるきらいがあった」とか言えるよね。これ子供が読むことを想定してるような幼稚な文体なのに、どうしてこういうところ配慮がないかなあ……。
もう一度立ち止まるチャンスはあったのだけれど……
しかしそれでは同人誌同人作家に多くのファンがつく理由が説明できないという人もいるでしょう。
三度目の正直。今度こそ立ち止まるチャンス…!
ただ、同人誌という市場は最近になって突然誕生したわけではありません。数十年も前にインディーシーンとしてひっそりと誕生し、その間様々な迫害を受けたりトラブルに見舞われたりしながらも、その都度一つ一つ課題をクリアしていってようやくここまでたどり着きました。そういった意味で同人誌市場は新しいメジャーシーンであると言って差し支えないでしょう。メジャーだからこそ多くのファンがつき人気がさらに拡大したという側面もあるのではないでしょうか?実際、コミケの人気がより多くの人に急速に広まったのは、コミケが定着してメジャー化した1990年代後半以降と言えると思います。
いや、都合が悪いからってコミケをインディースから切り離してメジャーの方に恣意的に組み入れるのはズルでしょ……。もう結論が先にあって、無理やりそのために議論のルール捻じ曲げてますやん。これは校閲でちゃんとはじけるでしょう。講談社さん何やってるんですか。
それに、漫画は大手出版社から出ていた時代からそもそもが共同制作ではなく個人創作のコンテンツだったので、ただでコミケで販売されている同人誌であってもそれほど抵抗がなかったと言えるのではないでしょうか。
なんでそこまでして「同人ゲームは作られていなかった」ことにしたがるんだ……。普通に売ってたよコミケで!同人誌よりも行列できてる壁サークルがあったんだよ!それどころか同人ゲームの同人ゲームまであったんだよ!
ダメだわ、立ち止まるも何も、最初からもうその可能性を排除してしまっていたわ……
いま一度、話を日本におけるインディーゲームの雰囲気に戻しましょう。
日本人は長らく国産ゲームのテイストに慣れていたので、その頃はまだ海外ゲームのテイストには触手が伸びませんでした。インディーゲームマーケットに触れる機会がなかったという側面もあると思います。
ダメだー。ここ最後の立ち止まりポイントだったんだけどここもぶっちぎってますね……。
なぜかコミケの話までしたのにコミケでは同人誌しか売られてなかったことになってるー。この人、コミケのことも全く興味がないのか、そうじゃないなら最初から「日本にはインディーゲーム市場はなかった」というのが結論になってるせいでコミケの話までしててもそこにインディーゲーム市場が存在してたかも、とは思えないんだ。とらのあなとかゲーメストの存在が全く目に入らないんだ。
さらに一流メーカーの重厚長大なゲームありがたがる気風は、「ゲームを作りたいならゲームメーカーに行けばいい」「個人で作るのはちょっとおかしい」という少し差別的な見方にもつながります。例えとして適当かどうか分かりませんが「テニスをやりたいなら硬式テニスをやればいいのになぜあえて軟式テニスをやるのか」という感じですね。
ハックルさん、なんですぐにゲーマーを差別主義者にしてしまうん?
しかも今回は憶測じゃなくて断定の上に変なたとえ話で追い打ちまで。
なぜ青 才さんといい、ハックルさんと言い、説明に困ったら「事実がおかしいのではないか」と考えるのではなくてたとえに走り出すのか。これさ、明らかに「自分を納得させる」とか「それまでの違和感をリセットする」ためにやってるよね。ここまでで3回信号(ひっかかりポイント)を無視をしてるわけだけれど、そろそろ自分でもつらくなってきたころにたとえ話を始める。青 才さんはこういうところだけハックルさんに似なくてもよかったのに……。
こうしたマイナーなものを差別する風潮は欧米ではあまり見られません。それこそ日本だけの特殊なガラパゴス的状況です。それに、日本は何しろゲーム先進国でしたのでゲーム会社に就職するのが他の国よりもずっと良いだったという事情もあるでしょう。他国ではゲーム会社に就職したくともそもそも近くにゲーム開発会社が近くにないという状況も珍しくなかったのです。
すげえ、もう「ジャップオス」とか「日本社会は中世」とか言ってるアホのツイフェミさんに近いアトモスフィアになってきた。
さらに日本では1990年代前半からゲームクリエイターになるための学校も出来ていましたからなおさらゲーム業界に就職しやすくなり、同時に個人でゲームを作るということを異端視する傾向が強くなったという事情もあります。ただ、そこでの教育は必ずしも「新しい文化を生み出す若き才能を育てる」という目的に集中できたわけではありません。むしろゲーム業界に就職するため基本的なスキルをしっかりと身につけるということで手一杯だったように思います。
それは必ずしも悪いことではありません。ただ少し厳しい言い方をするなら革新的なゲームが生まれにくい状況を加速させたという側面は否めないと思います
このように、心の中にワセダを飼って「ボケに対してひとつずつツッコミを入れるゲーム」のような感覚で読めば結構楽しめる本
岩崎ヒロマサさんのアプローチは圧倒的に正しいのかもしれません。読む価値もない駄本だという人の気持ちもわかる。
ただ、断片的に切り取って間違いを指摘するのではなく、ブロックで読むとちょっと印象が変わると思います。ハックルさんの「おかしいと思ってもブレーキを踏まずにどんどん推論を重ねていく強さ」「抑えようとしても止まらないその妄想力」など、方向性はともかくほとばしるエネルギーみたいなものはひしひしと感じます。
この本はただのトンデモ本ではないんです。ただ間違った情報が多いだけの本ではなく、作者自身が尖りまくっている。キラリと輝く個性がそこには詰まっているのです。
この本を読むためには心の中にワセダを飼えばいいのです。そしてハックルさんの発言に全力で突っ込む。バトルのような感覚で読めばいいのです。
私は最初この本を黙読しようとしました。しかしそれだと目が滑って頭が入ってこないので全然読めませんでした。でも、対決するようなつもりで音読すると、ものすごく面白くなりました。誰もいないところで、読みながらその都度力強くツッコミを入れる。これをやると結構よんでて楽しいです。
思えばドグラマグラの時もそういう感じで読んでた気がします。「信頼できない語り手」に対して、その都度心にため込まずに「なんでやねん!」「いやいやいやこれおかしいって」とか声に出しながら読んでいくと、意外とわけわからん話でも読めるのです。
ドグラマグラにせよゲームの歴史にせよ、何も言わずに読もうとするとストレスが溜まって挫折してしまいます。そうじゃなくて、その都度ツッコミを入れてストレスを解消しながら読み進めれば、少しずつでも前に進むことができます。そういう風に読んだ方が楽しいです。
この本は一度に読もうとするのは無理です。1日に1章が限界です。ハックルさんとバトルするような感覚でチマチマと読み進めていきましょう。
この本を読めば、「黙読しててもストレスを感じずにすらすらと読める本」というのがいかにありがたい存在かを思い出すことができます。感謝をもって本を読めるようになるという意味でも、むしろ読書嫌いな人にこそおすすめです。