折角の良い本なのにどういう本なのかの説明が全く買い取らんやないか。なめとんのか。
と思ったので、過去に書いた記事を紹介しておきます。
1:「読む」という行為には「わからない」→「わかる」(わかったつもり)→「よりわかる」の3段階がある
①文脈がわからないとわからない
②文脈がスキーマを発動し、文脈からの情報と共同して働く
③文脈がそれぞれの記述から意味を引き出す
④文脈が異なれば、異なる意味が引き出される
⑤文脈に引き出されたそれぞれの意味の間で関連ができることで、文が「わかる
「わかったつもり」の状態は、ひとつの「わかった」状態ですから
「(自分にとっては)わからない部分がみつからない」という意味で安定しています。
わからない場合には、すぐその先を探索にかかるのでしょうが、
「わからない部分が見つからない」ので、探索しようとしない場合がほとんどです。すなわち、各部分の記述から、事例としての大雑把な意味しか引き出されていないのです
2:なぜ「わかったつもり」になるのか =文脈や文章の雰囲気に支配されてしまい、部分を正確に読めなくなってしまうから
大多数の人にとって、「読む」という作業は
部分の理解を積み上げていって、全体に関する理解をつくり上げるものだと思われています。
しかし、第二章で述べたように、私達はむしろ文脈を使って部分を読むのです。
ですから、文脈を使って、部分から間違った意味や漠然とした意味を引き出して、
間違った「わかったつもり」を維持することになるのです。文脈は諸刃の剣です。適切な文脈がなければ「わからない」状態を引き起こしますが
存在する文脈が強力であればあるほど、それによる間違いを引き起こす可能性が高くなるのです。
私達は、「エコ」「絆」など現代という時代にマッチする、
通りの良い多くの知識を保持しています。
これらはそれぞれひとまとまりの知識群をなしていることが多いでしょうから、
スキーマというふうに呼んでおきます。
これらのスキーマが文章を読むときに「わかったつもり」へと誘う魔物に化す
とくに自分が正しいとか良い人間だとか被害者だと思い込みたがる人は、スキーマから逃れることが極めて困難です。
はてな左翼の人は、自分を支配している強力な文脈に対して無自覚なので、どれだけ頑張っても文章を正しく読むことは出来ません。
文脈というのは「結界」のようなものです。自分がどのような文脈に則って文章を読んでいるかを意識できない人は、そこから脱出できない。
一つの文脈に取り込ますぎないためには、他の文脈の存在を理解し、自分の文脈が絶対ではないことを理解しなければいけません。
この「結界」の恐ろしさを知り、そして、そこから抜け出せた人間がどれほど晴れやかな気分になれるかを知りたい人は
京極堂シリーズの「鉄鼠の檻」を強くおすすめします。
3:中途半端にわかったつもりになってクソみたいなコメントをしないためにこの「わかったつもり」という魔境の存在を知っておくと良い
読むという行為の障害は、「わからない」ことだと一般には考えられています。
このことは、「わからない」から「わかる」に達する過程ではその通りです。しかし、「わかる」から「よりわかる」に到る過程においては
「読む」という行為の主たる障害は、「わかったつもり」なのです。
「わかったつもり」がそこから先の探索活動を妨害する。
4:「よりわかる」状態に近づくためには「より細かい文脈」を意識できるようにならなければいけない
この状態は、読みて自らが構築したものなのです。
ならば、より良く読むためには、自分で作り上げた現在の「わかった」状態を自分で壊さなければならないのです。
この時、自らの甘さを痛感させられることにもなるので、
それはなかなか大変なことです。
このような意味で、敵は自分でもある、と言えるでしょう。
各部分の記述から、事例としての大雑把な意味しか引き出されていないのです。したがって、もっと個別の具体性を持った意味を引き出せれば、「わかったつもり」からの脱出が可能になるわけです。つまり、「より細かい文脈」を道具に文章を見直すのです