頭の上にミカンをのせる

もうマンガの感想だけでいい気がしてきた

テートクの決断5-5 「絶対国防圏」 海軍が太平洋でボロボロな状況の中、日本陸軍は太平洋から軍をひきあげて中国側で勝利を得ようとするが…

イタリアが無条件降伏しドイツも弱まってきたことで、ヨーロッパ側の連合国軍に余裕が出てきた

ja.wikipedia.org
8月。イタリア降伏を受けて、日本側への戦力強化が決定される。

中国への援蔣ルートについては、陸路の連絡回復とハンプ越えによる空輸強化に努めることが決定された。
この会談ではB-29の使用が戦略の一つとして取り上げられ、アメリカからはセッティング・サン計画が提案された。
内容は中国を基地とするB-29の28機ずつの10編隊(逐次20編隊に増強)から始め、ドイツ降伏から12か月以内に日本を屈服させることを目標にしていた

ja.wikipedia.org
11月末。中国も交えて日本に無条件降伏を要求することに。

「日本は1914年の第一次世界大戦開戦以来太平洋で奪取、占領した全ての島嶼を没収される」
「日本が中国人から盗んだ、満洲、台湾、澎湖を含む全ての領土は中華民国に返還される」と述べた。


ja.wikipedia.org

11月末。もはやこの段階で連合国軍は勝利を確信していた。
テヘラン会談を期に連合国の首脳会談は戦争遂行上の諸問題から戦後処理問題へと移っていった。

日本に対する英領ビルマ奪回といった連合国側の諸作戦における各国間の調整事項のほか
ドイツの降伏後をにらんだポーランド国境の確定、ソ連対日参戦などについて話し合われた。

それまで、中国・タイ・仏印は中国専管戦域だったが、いよいよ米英が関与してくることに

潜水艦技術や戦車技術でわかるように、日本陸軍の戦い方は日露戦争以降からそれほど進んでいなかった。

そのためはじめから欧米が対中戦争に関与していたら、日本軍はそれほど野心を持たなかったかもしれない。

しかし、蒋介石の意地によって中国軍のみとの戦いになっていたから日本軍は優位を得ることが出来ていた。

蒋介石は米軍からの軍事顧問の意見にも全然従わなかったらしい。






しかし、ケベック会談以降はいよいよ米英の空軍が支援に入るようになった。


ja.wikipedia.org


焦った日本陸軍は、満州からの兵士を移動させて、一気に中国を攻めることにした

ja.wikipedia.org



援蒋ルートは4つあったが、その中でインドからのルートに対応したのがこの作戦。
ja.wikipedia.org
最初から補給が困難であるおことは指摘されていたが、牟田口がこれを強行に主張していた。



ja.wikipedia.org
太平洋戦争のことを全く知らなくても、なぜかこの名前だけは知っていて例えに出す人がいるが、背景はちゃんと理解しておきたい。


実際にこの作戦の結果は悲惨なものとなった。

3割を越えたら全滅と言われる中で最終的な損耗率が76%とガダルカナル島を越える悲劇となった。
日本では史上最悪の作戦として評価されている。
しかし、イギリスやインドでの評価はそこまで悪くない。


ぶっちゃけ作戦そのものが悪いのではなく、日本軍の体制が問題だったと思われる。
牟田口だけを責めるのはフェアではないというのが最近の評価になっているようだ。

この作戦の最大の問題点は補給であったが、牟田口もその点は認識しており
緬甸方面軍に自動車等の補給力増強を要請していた。
しかし、その増強要請は緬甸方面軍から上部組織に上申される都度に削られていき最終的に認可されたのは牟田口の要望の2割に満たなかった。


まぁ、ジンギスカン作戦があまりにひどかったからそりゃ叩かれるだろうとは思う。

しかし牟田口はこれで作戦を諦めることなく輸送力増強と食料確保策として
現地で牛や羊を調達し、荷物を運ばせた後に食糧としても利用するという
過去のモンゴル帝国の家畜運用に因んで「ジンギスカン作戦」を発案した

ヒツジは1日にせいぜい3㎞しか移動せず、逆に進軍の足かせとなってしまった。
モンゴル帝国は家畜を伴いながらゆっくりと進撃していたが、
第15軍の部隊はわずか20日でインパールに達しなければいけないという時間的制限を課されており
ヒツジの習性を理解しないで企画した作戦であることは明らかであった。
そのため、ヒツジは作戦開始早々に見捨てられることとなった。
また肝心のウシもチンドウィン川の渡河で消耗したうえ、
もともと農耕用であったビルマのウシはいくらムチで叩こうが急峻な山道を登ろうとはしなかったため
山岳地帯の移動でも順次消耗していった。
第31師団を例にとると、渡河から最初のミンタミ山脈踏破でまず1/3を消耗、
次のアラカン山脈でも次々と損耗し、目的地のコヒマに到着できたのはわずか4%だった



ja.wikipedia.org

ちなみに牟田口は敗戦後しばらくは何を言われても沈黙していた。それ故に都合の良いバッシング対象として取り上げられ続けた。
ところが死の数年前から「自己正当化活動」を続けた。

実際、ディマプル攻略に関するgdgdぶりはどう考えても河辺正三のほうが悪くて牟田口だけが悪かったわけではないことは間違いない。
とはいえ、いずれにせよインパール作戦は最悪の結果に陥ったことは事実でありその発案者や主導者が彼であったことには代わりはない。


まぁこのあたりのインパールの悲劇については8巻で嫌と言うほど描かれるので、その際に詳しく触れます。



なお、輸送の問題は更に深刻になっており、海上護衛総司令部が発足したが、あまり機能はしなかった


ja.wikipedia.org


単純に全然こちらに兵力が回されなかったからね、仕方ないね……。







というわけけで、ようやく5巻の絶対防衛圏が終わりました! 6巻はさらに長くなりそう……