誰でも知ってる歴史のおさらいです。
「あのレーガンですらまともにみえるくらいトランプがやばい」ということがいいたかったのであり、レーガンがまともであると思ってる人はまさかいないと思います。
言うまでもなく、レーガンおよび、レーガンの意をくんだ中曽根政権によって、日本の製造業はずたずたにされました。
特に半導体産業は再起不能なところまで落ち込みました。
三菱電機などが歯を食いしばって「パワー半導体」だけ分野はなんとか温存しましたが、米国に寄って「政治的に」日本の半導体業界が殺されたというのはみなさんご存知のとおりです。
半導体以外は、生き残りをかけて大きく変化しましたが、その際にサプライチェーンが大きく変質し、日本国内の製造業の空洞化が一気に進みます。
レーガンの関税だけでこうなったわけですが、トランプの関税でどうなるかとかは想像しただけで恐ろしい話です。
レーガンの頃に日本企業が食らった三重苦:「円高」「米国におしつけられた不利な協定」「関税」
日米半導体協定が「日本側によって遵守されていない(ダンピングが続き、市場開放も不十分)」として
米国は1987年4月にパソコン、電動工具、カラーテレビなど一部の日本製品に対して100%の報復関税を発動しました。
この報復関税は、状況の改善が見られたとして段階的に解除され、最終的に日米半導体協定が改定された1991年に完全に撤廃されました。
なお、レーガン政権時代には鉄鋼など他の分野でも日本に対する輸入制限や関税圧力がありました。
ご存じの通り、レーガン政権における「MAGA」は日本の犠牲によって、日本の作り出した富を政治的に収奪することで達成されたと言える側面があります。
しかもレーガノミクスってそこまで評価高くないしね(※)
しかし今回のトランプの「MAGA」は、奪う対象がいませんでした。
なぜかというとすでにアメリカが一強だったからです。
あえて奪う対象があるとすればそれはアメリカのビッグテックくらいだったと思われます。
しかし、国民がその選択を避けた結果、トランプは薄く広く世界中から奪うことに決めました。
前回の日本は、めちゃくちゃ厳しい状況に追い込まれましたが、それでもまだ生き残れました。
それまでに稼ぎまくっていたおかげでまだ余裕があったからです。
その余裕を切り崩す形でなんとか生き残ることができました。
新しいサプライチェーン構築を行うだけの体力がまだ残っていたことが幸いでした。
しかし、今回の日本が同じことをされたら本当に生き残れるのでしょうか。
まじで、どうするんだろうね。
1. 日米半導体協定後の10年間の製造業の業績変化 (ざっくり)
①半導体産業:
短期 (協定直後~1980年代末): 協定により、日本企業は不公正な廉価販売(ダンピング)の防止と、外国製半導体の国内市場シェア拡大(目標20%)を求められました。
これにより、得意としていたDRAMなどの汎用メモリ市場での価格競争力が低下し、輸出価格の引き上げや生産調整を余儀なくされました。業績にはマイナスの影響が出始めました。
中期 (1990年代前半~): 円高の進行と協定のプレッシャー、さらに韓国などの新興勢力の台頭により
日本の半導体産業(特にDRAM)は急速にシェアと競争力を失いました。多くの企業が苦戦し、投資も停滞気味になりました。
得意分野をシステムLSIなど高付加価値品へシフトしようとしましたが、かつての勢いを失い、業績は全体的に低迷しました。いわゆる「日の丸半導体」の凋落が始まった時期です。
②製造業全体:
製造業は半導体協定自体よりも、同時期に進行した急激な円高(プラザ合意以降)の影響がより広範かつ深刻でした。
輸出採算が急激に悪化し、多くの輸出型製造業(自動車、電機、機械など)は大幅な減益に見舞われました。
これを乗り越えるため、徹底したコスト削減(「乾いた雑巾を絞る」と表現された)、生産性の向上、そして海外生産へのシフト(特にアジアや北米)が一気に加速しました。
1980年代後半には「バブル景気」が発生し、内需の拡大によって一時的に業績が回復した企業も多くありました。
しかし、この好景気は実力以上の部分も多く、円高対応の構造改革が十分に進まない側面もありました。
1991年頃にバブルが崩壊すると、状況は一変します。
円高のハンデに加えて、過剰設備・過剰雇用・不良債権の問題が重なり、多くの製造業が長期的な業績低迷期(「失われた10年」)に突入しました。
結論として、この10年間は、半導体産業は協定と円高、国際競争激化で凋落が始まり製造業全体としては、円高への対応に苦しみながら、バブルによる一時的な回復を経て、長期低迷期へと入っていく、非常に厳しい転換期でした。
2. プラザ合意後の円高下で利益を出せるようになるまでの期間
これは一概に「何年」と言うのは難しいです。
①直後の1~2年 (1985年後半~1987年頃): 多くの輸出企業が赤字寸前か赤字に陥るほどの深刻な打撃を受けました。必死のコスト削減が行われました。
②バブル景気期 (1987年頃~1990年頃): 円高は続いていましたが、それを上回る国内の好景気(内需拡大、資産価格上昇)によって、見かけ上は多くの企業が利益を回復・拡大させました。
しかし、これは円高への本質的な適応というより、バブルに支えられた側面が強いです。
③バブル崩壊後 (1991年~): バブルが弾けると、円高の根本的な問題が再び露呈し、多くの企業が再び苦境に陥りました。
ここから、本格的な海外生産シフトや事業再構築が進みましたが、安定的に利益を出せる構造に転換するには多くの企業で1990年代半ば、あるいは後半までかかるなど、長い時間を要しました。
つまり、一時的な回復はバブル期にありましたが、円高という構造変化に真に適応し、安定的な利益体質を取り戻すには、多くの企業にとって10年近いか、それ以上の年月がかかったと言えるでしょう。