頭の上にミカンをのせる

もうマンガの感想だけでいい気がしてきた

「何で氷河期世代は、労組嫌いのネトウヨが多いか」→「労組が正社員制度維持と失業ヤダと駄々こねて若者を救わなかったから」は本当か?

何で氷河期世代に労組嫌いネトウヨが多いかというと、
当時の情勢では大企業潰すか、正社員制度なくすか、派遣制度緩和するか、の選択肢の中で、
労組が正社員制度維持と失業ヤダと駄々こねたのを覚えてるからです。

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2564293

このコメント、書き方が揶揄してるような感じなので感情的に否定・反発する人が多いと思いますがこれは氷河期世代の被害者感情とかじゃなくて、かなり客観的な事実に近い認識です。 立憲民主党支持者などのリベラル勢はこのあたりの感情を割と軽視している感じがする。というか「自分たちを支持しない氷河期世代をすぐネトウヨ扱いする」のが本当に良くない。



というわけで、氷河期世代の人の政治的感情について、データも踏まえながらざっくり説明します。

例のごとく「読むのがかったるい!音声で聞きたい」という人はこちらから




氷河期世代の「政治的感情」分析

バブル崩壊後の1990年代半ばから2000年代前半にかけて、極端な就職難に直面した世代がいる。
「就職氷河期世代」、あるいは単に「氷河期世代」と呼ばれる人々である。
彼らは今、40代から50代前半に差し掛かり、社会の中核を担う年齢となった。
しかし、その胸の内に渦巻く政治や社会への感情は、他の世代とは一線を画す、複雑で屈折した様相を呈している。


それは、社会に出る最初の段階で「国にも労働組合にも見捨てられた」という原体験に根差している。


yoshikimanga.hatenablog.com




1️⃣守ってくれなかった労働組合への失望

氷河期世代の多くが抱く感情の根底には、労働組合への深い不信感がある

彼らが社会に出ようとしたまさにその時、
若者の盾となるべき存在であったはずの労働組合は、その役割を果たさなかった。

「労組は若者を守ろうとしなかった」という彼らの認識は、単なる感情論ではなく、歴史的事実に裏打ちされている

1990年代、日本企業は深刻な不況に見舞われ、大規模な人員削減を迫られた。

しかし、当時まだ強力だった解雇規制と、
正社員組合員の雇用を守ることを至上命題としていた労働組合の存在が、安易な整理解雇を阻んだ。
その結果、企業が選んだのは「新卒採用の抑制」と「派遣の拡大」という手段だった


これは、既存の中高年正社員の雇用と生活水準には一切手を付けず、
これから社会に出る若者だけを犠牲にすることで人件費を調整する、という構造であった。

事実、労働組合のある企業ほど、若年層の採用を抑制し
中高年層の雇用を維持する「置き換え効果」が強く現れたことが分析の結果明らかになっている。

労働組合は本来、労働者全体の利益を代表する組織のはずである。
しかし、当時の日本の労組は、その構成員のほとんどを正社員が占める「企業内組合」であり
その関心は自ずと「既存組合員の利益保護」に集中した。
まだ組合員ですらない学生や、社会に出たばかりの非正規労働者は、その保護の対象外とされた。




さらに、1999年と2004年の労働者派遣法改正は、この流れを決定的にした。

派遣労働が原則自由化され、製造業にも解禁されると
企業は正社員の採用をさらに絞り、安価で調整しやすい派遣労働者でその穴を埋めた。

この非正規雇用の拡大という構造変化に対し、労働組合は効果的な対抗策を打ち出せなかった。


非正規労働者の組織化も遅々として進まず、2017年時点でもパート労働者の組織率はわずか7.9%に留まる。
氷河期世代の多くが非正規という形で社会に放り出された中で、労働組合はあまりに遠い存在だった。




もちろん、連合による政策提言や、個人で加盟できる青年ユニオンの活動など、
「後追いでの」支援活動が全くなかったわけではない。
しかし、彼らが最も助けを必要としていた90年代後半から2000年代初頭にかけて
労働組合が既存の正社員の砦を守ることを優先し、
自分たちを積極的に救おうとしなかったことは紛れもない事実であり

これは彼らの心に消えない傷として刻み込まれている。



氷河期世代は犠牲になったのだ。
企業だけではなく、解雇規制や減給から正社員を守ろうとした労働組合を守るための犠牲にな。





2️⃣植え付けられた自己責任論と「公」への不信

多くの若者が経験したのは就職活動での数十社、数百社に及ぶ不採用。
やっと見つけた仕事は、不安定な非正規雇用。
正社員との埋めがたい格差と、いつ雇い止めにあうか分からない不安。


こうした経験は、彼らの自尊心を深く傷つけ、社会からの孤立感を増幅させた。
追い打ちをかけたのが、当時の社会に蔓延した「自己責任」の風潮だった。

事情を知らなかったのか、知っていて自分たちの立場を守るためにポジショントークで言い始めたのかは知らないが
当時の社会は若者たちに対して「就職できないのは努力が足りないからだ」「甘えているだけだ」という言葉を浴びせた。
社会構造の歪みは個人の問題にすり替えられ、若者たちを金銭面だけでなく精神的にも追い詰めた。




「国も、社会も、そして労働組合も、自分たちを守ってはくれない。」
この絶望的な認識は、彼らの心に「公的なもの」や「集団」への根強い不信感を植え付けた。


その結果、彼らの意識は内へ、自己へと向かう。

「誰も助けてくれないのなら、自分の身は自分で守るしかない」。

この自己防衛意識が、彼らの行動原理の核となる。

集団で連帯して社会を変えようとするよりも
まず個人のスキルを磨き、資産を形成し、自分の生活基盤を固めることを優先する。
労働運動や社会運動といった集団行動に冷淡な視線を向ける傾向があるのも、
こうした原体験からすれば自然な帰結と言える。




3️⃣自分たちから「奪うもの」への強い反発

この強い自己防衛意識は、時として他者への攻撃性となって表れることがある。
いわゆる「ネット右翼」と呼ばれる層と氷河期世代の重なりが指摘されることがあるが
その背景には、自らの乏しいリソースを脅かす存在への過剰な警戒心がある。


彼らにとって、自分たちの雇用や生活を脅かす可能性のあるものは、すべてが「敵」に見えやすい。


それは外国人労働者かもしれないし、生活保護受給者かもしれない。

長年の苦労の末にようやく手に入れたささやかな安定を、
誰かに奪われることへの恐怖が、排外主義的な言説への親和性を高める一因となっている。


また、リベラリズムやフェミニズムといった思潮への反発も、この文脈で理解できる。

これらの思想が掲げる多様性の尊重やマイノリティの権利擁護は、
彼らの目には「自分たち以外の誰かを優遇するもの」と映ることがある。

自分たちが最も困難だった時代に誰からも顧みられず、
「自己責任」の名の下に放置されたという記憶。

その記憶が、新たに登場した「守られるべき弱者」への嫉妬や反発を呼び起こす。
自分たちの苦しみこそが正当に評価され、救済されるべきだという切実な思いが、他の「弱者」への共感を妨げる皮肉な構造がここにはある。





4️⃣「弱者救済」より「強い経済」への期待

このような心理構造を持つ彼らにとって、「弱者救済」という言葉は複雑な響きを持つ。

それは、かつて自分たちが見捨てられたことへの恨みを刺激するトリガーとなりうる。
「なぜ今になって他の誰かを助けるのか。我々が苦しんでいた時、
あなたたちは何もしなかったではないか」という、抑えきれない怒りが噴出するのだ。


したがって、彼らが政治に求めるものは、崇高な理想や分配の公正さといったお題目よりも、もっと直接的で現実的な利益である。


「日本経済を強くしてほしい」「株価を上げてほしい」。
こうした要求の裏には、強い経済や資産価値の上昇こそが、最終的に自分の生活を安定させ、守ってくれるという悲しいリアリズムがある。


社会全体での助け合い(連帯)を信じられなくなった世代が、
市場の力(競争)に自己の安定を託すのは、ある意味で必然的な選択なのかもしれない。


理想論を語る政治家よりも、
経済成長への具体的な道筋を示し、力強いリーダーシップをアピールする政治家に惹かれる傾向が見られるのは、このためだろう。
きれいごとでは飯は食えない、という冷徹な現実を、誰よりも骨身に染みて知っているからだ。





5️⃣ 新たな政治的選択――立憲・共産離れと国民・維新への期待

こうした氷河期世代の政治的感情は、近年の政党支持の傾向にも明確に表れている。


伝統的な労働組合を支持母体とし、「弱者救済」や「分配」を掲げる立憲民主党や共産党は彼らの支持を得にくい構造にある。
これらの政党は、悪というわけではないのだが、彼らからすると中途半端なのだ。
かつて自分たちを見捨てた「旧来型の集団」のイメージと重なりその主張はどこか空々しい理想論に聞こえてしまう。



一方で、注目すべきは国民民主党や日本維新の会への期待の高まりである。
各種世論調査では、40代を中心とする氷河期世代において、これらの政党の支持が他の野党に比べて高い傾向が示されている。



その理由はいくつか考えられる。

・第一に、これらの政党が既存の労組や業界団体といった「しがらみ」から自由である、というイメージ。

・第二に、「改革」を掲げ、規制緩和や減税といった自己責任で生きる個人を後押しするような政策を志向している点。

・そして第三に、イデオロギーよりも現実的な経済政策や安全保障を重視する姿勢である。

これらはすべて、集団を信じず、自己防衛を第一とする氷河期世代の価値観と高い親和性を持つ。


もちろん、氷河期世代の支持が最も厚いのは、依然として政権与党である自民党だ。
これは、経済運営への現実的な期待や、他に選択肢がないという消極的支持も含まれるだろう。
しかし、その中で国民民主党や維新が一定の受け皿となっている事実は、
氷河期世代が旧来の「革新vs保守」という対立軸とは異なる、新しい政治の座標軸を求めていることの証左と言える。


氷河期世代の政治的感情は、単なる気まぐれや世代特有のわがままではない。

それは、日本社会が大きく変動する中で、
セーフティネットからこぼれ落ち、「見捨てられた」という強烈な体験から生まれた、必然の産物である。

労働組合への不信、自己責任論の内面化、公的なものへの懐疑心、
そして何よりもまず自分を守ろうとする強い意識。

これらが絡み合い、彼ら特有の政治的スタンスを形成している。

彼らが求めるのは、もはや過去の埋め合わせとしての「救済」ではないのかもしれない。

むしろ、これ以上何かを奪われることなく、
自らの力で築いた生活を守り、ささやかでも確かな未来を展望できる、安定した社会基盤そのものである。


この世代の静かな、しかし根深い怒りと不信を理解することなくして、
日本の政治と社会の未来を語ることはできないだろう。
彼らは、社会がその構成員を見捨てた時に何が起こるかを示す、生きた証人であると言える。


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