頭の上にミカンをのせる

もうマンガの感想だけでいい気がしてきた

私はそもそも「下手くそな比喩」が嫌いなので、当然「盛りすぎ」表現も好きではないけれど、感情を大げさに語ること自体は否定していない。問題は「事実」を盛ること

anond.hatelabo.jp

まずこの件について思ったことを簡単にまとめるとこんな感じです。


1:感情を盛るのが良いが事実を盛るな
自分の「感情」を大げさに表現することは、コミュニケーションを円滑にする側面もあり、ある程度は許容されてほしい
しかし、客観的な「事実」や「他人の反応」を捏造して盛ることは、単なる嘘であり、決して許されるべきではない。この区別ができない人は、そもそも話を盛るべきではない。

2:内輪ノリの危険性とエスカレーション
仲間内で通用する大げさな表現(例:「犯罪者だよね」といった過激な冗談)は、閉じたコミュニティの中では盛り上がるかもしれない。
しかし、そのノリを文脈を共有しない外部の人間に向けると、単なる悪意や攻撃と受け取られ、深刻な人間関係のトラブルを引き起こす。
また、内輪での過激な表現はエスカレートしやすく、当人たちの感覚を麻痺させてしまう危険性がある。

3:「正義」を振りかざす人々の表現の過激化
特にSNSにおいて、自分を「正義」の側に置く人々(特定の思想を持つ活動家など)は、反対意見を持つ相手に対して過剰に攻撃的な言葉(「死刑にしろ」など)を使いがちである。
彼らは「正しいことのためなら許される」という大義名分のもと、表現を際限なくエスカレートさせる。これは、注目を集める快感(承認欲求)とも結びついており、非常に危険な状態である。

4:過剰な表現がもたらす末路:
過激な表現で注目を集めることに慣れてしまうと、もはや後戻りできなくなる。
その結果、誹謗中傷で訴えられたり、社会的な信用を失ったりと、自滅的な結末を迎えるケースが少なくない。メリットとデメリットを冷静に判断できない(話者曰く「頭が悪い」)人は、この罠に陥りやすい。

5:そもそも論として
大げさな表現に頼る背景には、話の中身そのものの空虚さや、手軽に注目を集めたいという安易な考えがある。
小手先の表現テクニックに頼るのではなく、読書や様々な経験を通じて自分自身の内面を豊かにし、語るべき内容を持ちましょうだし
それができないならマンガとかアニメの感想だけ語ってたほうが身のためだよ、という当たり前の話は一応しておいたほうが良いかな・・・






「オタク特有の大げさな表現はそろそろ改める時期に来てるんじゃねえの?」の記事について思ったこと

どういう内容だったかと言うと
「ちょっとどうかなって思った」ぐらいの気持ちを「顔が引きつった」って言ったり、「うんうんって頷いただけ」なのに「激しく頷きすぎて首がもげた」とか言っちゃうような、いわゆる「盛り表現」ってやつですね。

こういうのが、コミュニケーションを面白くするどころか、周りから見たらただの「嘘」に聞こえて、不信感とか嫌悪感の原因になってるんじゃないの、っていう、指摘がされていました。


これって、きっと多くの人がSNSとか普段の会話の中で「ん?」って感じたことがある違和感じゃないでしょうか。

そして、これって、ただ「良い悪い」で済む話じゃなくて、もっと根が深い問題が隠れてるんじゃないかなって思ったんです。

今日はそのことについて、なんでこういう大げさな表現が生まれちゃうのか

どうしてどんどんエスカレートしていくのか、そしてそれが私たちにどんな影響を与えているのか、ちょっとじっくり話してみたいなと思ってます。

「盛る」のと「嘘つく」のって、どこが違うんだろう

まず、大げさな表現が全部ダメだって言うつもりは、私にもないんですよ。

コミュニケーションにおいて、自分の感情をちょっとだけ大げさに伝えるのって、話が弾んだり、場の空気が和んだりする、いいスパイスになることだってありますからね。

例えば、「感動して涙が滝のように流れた」って言われても、本当に滝みたいに涙が出たなんて誰も思わないじゃないですか。

あれは感情の大きさとか強さを伝えるための比喩であって、一種の言葉の遊びなんですよね。

聞いている方も「それくらい感動したんだな」って、その意図をちゃんと汲み取ってくれるわけです。

問題なのは、この「言葉の遊び」のルールをわかってない人がいるってことなんです。

絶対に越えちゃいけない一線があるのに、それを平気で踏み越えちゃう。

その一線っていうのが、自分の「感情」を大げさに言うことと、客観的な「事実」を捻じ曲げることの、ちょうど境目にあると思うんです。

自分の感情を「盛る」のは、まあ自分の心の中の話だから、まだ表現の範囲かなって思うんですよ。

でも、これが「事実」、特に自分以外の誰かが関わる話になった途端、もう全然違う話になるんですね。

例えば、本当は誰も笑ってないのに、「あの話したら、周りも大爆笑だったよ」とか

「みんなが感心してた」とか、他人のリアクションを勝手に作り上げちゃう行為。

これってもう、表現の誇張じゃなくて、自分の都合のいいように現実を歪めてる、ただの「嘘」じゃないですか。悪質だとすら思います。

この違いがわからない、あるいはわかってて無視する人は、コミュニケーションの信頼を根本から壊しちゃう。彼らにとって事実は自分を飾るための道具でしかなくて、会話は真実を分かち合う場じゃなく、自分を目立たせるためのゲームになっちゃってるんですね。

もし、自分の中に「これは感情の話、これは事実の話」っていうハッキリした区別がつけられないんだったら、最初から話を「盛る」なんてことはやめたほうがいい。

それは、いつ割れるかわからない薄い氷の上を歩くようなもので、本当に危ないことなんですよ。





最近、三沢文也さんがこのラインを完全に越えてしまって完全に嘘と現実の区別がつかなくなってしまっているのですが・・・

note.com

その様子を見て「うわあ・・・」ってなってるのでまじで気をつけたほうがいいですよ。



仲間内の「ノリ」って、定期的に外部からのフィードバックを得ないとだんだん過激化・麻痺してくるんですよね

この話、実はもっと根深いところにも繋がっていくんです。

それは、特定の仲間内、いわゆる「内輪」だけで通用する過剰な表現が、使っている本人たちの感覚を麻痺させて、どんどんエスカレートしていくっていう現象なんですね。

実はこれ、私の個人的な体験なんですけど、私には姉と妹がいるんです。

で、一時期、この二人の会話を聞いてると、ものすごく不愉快な気持ちになることがよくあったんですよ。

彼女たちは、家族の誰かがちょっとしたことをしただけで、

それを咎めるときに「あの人、泥棒じゃん」とか「完全に犯罪者の動きだよね」みたいな、すごく極端な言葉を冗談みたいに言い合うんです。

最初は、まあ二人の中での「お約束」みたいなものかなって思って、苦笑いしながら流してたんですけどね。

でも、それがどんどんひどくなっていってその矛先は私を含めた家族みんなに向けられるようになって

私もさすがにカチンときて、「いい加減にしろよ」って本気で怒ったんですよ。

そしたら、二人は揃ってきょとんとしてるんですね。「なんで本気で怒るの?冗談だってわかってるでしょ」って。

その顔を見た時、私、本当にぞっとしました。

この人たちの中では、もうこういう過激な言葉を言い合うのが普通になっちゃってて、

相手がそれを聞いてどう思うかなんて、全く想像できなくなってるんだなって。

自分たちの「ノリ」が全てで、それに乗れない方がおかしい、みたいな。この独りよがりな感じ、本当に怖いなと思ったんです。

この経験で、はっきりわかりました。

仲間内だけで通用する過剰な表現って、麻薬みたいなものなんですよ。

最初はちょっとの刺激で楽しめてたのが、だんだんもっと強い刺激じゃないと満足できなくなって、やがては現実の感覚が完全に麻痺しちゃう。

そして、その麻痺した感覚のまま外の世界に出たら、そりゃトラブルになりますよね。

自分たちが楽しむための言葉が、その輪の外にいる誰かを深く傷つける凶器になるってことを、忘れちゃいけないなって、心から思いました。




「正義」を語る人ほど、言葉がどんどん過激になっていく話

この仲間内のノリがエスカレートするって話、今の時代だとSNSで、もっとひどい形で起こってると思うんです。

特に怖いのが、自分は「正義」の側にいるって信じてる人たちの言葉ですね。

Twitterとか見てると、もう日常茶飯事じゃないですか。

自分の信じる政治思想とか社会運動のために、違う意見の人を徹底的に、それこそ苛烈な言葉で叩きのめす光景。

もう批判とか反論のレベルじゃなくて、ただの人格攻撃だったり、誹謗中傷だったり、相手の存在そのものを否定するような言葉が並んでる。

「国外追放しろ」とか「死刑にすべきだ」なんて言葉が、平気で飛び交ってるわけです。普通に考えたら、とんでもないことですよね。

なんで「正義」のためだと、あんなに残酷な言葉を使えるんだろうって考えたんですけど、いくつか理由があると思うんです。

ひとつは、「自分は社会を良くするために戦ってるんだから、これくらい過激な表現も許される」っていう自己正当化ですね。

この大義名分が、言葉のブレーキを簡単に壊しちゃう。

もうひとつは、相手を「敵」とか「悪」っていう単純なレッテルで見てしまうこと。

相手も自分と同じように、いろんな考えを持った一人の人間なんだって思えなくなると、ひどい言葉をぶつけるのに何の抵抗もなくなっちゃうんですよ。

そして、SNS特有の理由が、「いいね」とかリツイートがもたらす承認欲求ですよね。

過激で扇情的なことを言った方が注目されるし、共感も集まりやすい。

その快感が忘れられなくて、どんどん発言がエスカレートしていくんです。

過激な発言で有名になったインフルエンサーが、結局、誹謗中傷で訴えられたりして全部失っちゃうみたいな話、たまに聞きますけど、まさにこの構造のせいなんだろうなと思います。

言葉って、インフレを起こすんですよね。

一度、100の強さの言葉を使うと、次は120の強さの言葉を使わないと、同じインパクトは与えられない。

この悪循環にはまると、もう自分じゃ止められなくなるんです。

そして、その「正義」の旗の下で振るわれた暴力的な言葉は、社会に建設的な議論なんて何も生まなくて、ただ修復できないほどの分断と憎しみだけを深く刻みつけていくんですよね。

結局、大げさな言葉に頼るのは、中身がないからじゃないかな

ここまで色々話してきましたけど、じゃあ、そもそもなんでみんなそんなに過剰な表現に頼っちゃうんでしょうか。

その一番根っこにあるものって、突き詰めると、すごくシンプルなんじゃないかと思うんです。

それは、話す「中身」そのものがない、っていうことなんじゃないかなって。

大した経験もしてないし、深い考えもない。でも、人から注目されたいし、すごいって思われたい。

そういう時に一番手っ取り早いのが、表現を大げさにすることなんですよ。

中身がスカスカの箱を、すごく豪華な包装紙で包んでごまかすみたいなものです。

テレビのバラエティ番組とかで使われる大げさなテロップやリアクションが、

いつの間にか私たちのコミュニケーションのお手本みたいになって、

「面白い中身」より「面白い言い方」の方が大事、みたいな価値観が、どこかで広がっちゃったのかもしれないですね。


でも、そういう小手先のテクニックって、すぐに見抜かれますよね。

言葉だけが派手で中身が伴わない会話は、

最初は面白くても、何回も聞かされると「この人、口ばっかりで中身ないな」って思われて、結局はしらけられちゃうだけです。



真のスコットランド人論法とか言われるかもしれないけれど

私が会ってきた人の中で「ずっと話が面白い人」「この人の話はずっと聞いてられるな」って感じる人は

言葉をむやみに飾り立てたりしないというか、そういうことをむしろ戒めていることが多かったです。

要するに表現によってむりやり感情を煽り立てる必要がないんですよ。

その人自身の経験が豊かだったり、物事を深く考えていたりするから、飾らなくても言葉に重みや面白みがある。

しょうもない話し方のテクニックを覚える時間があるんだったら、

本を1冊でも多く読むとか、何か新しいことに挑戦してみるとか、

自分の内側を豊かにすることに使った方が、よっぽどいいんじゃないかなって、私は思います。

面白い話って、面白い「話し方」からじゃなくて、面白い「生き方」から自然に滲み出てくるものなんですよ、きっと。



最後に

要するになにが言いたいかというと

大げさな表現がもたらすメリットとデメリットを、ちゃんと天秤にかける想像力がないなら、安易にその力を使うべきじゃないってはなしです。

それは、どうなるかわからない劇薬を扱うのと同じくらい、危ないことですから。


私たちは今、本当に言葉が溢れかえってる時代に生きてるんですよね。

SNSを開けば、誰かの大げさな喜びや怒り、悲しみが洪水みたいに毎日押し寄せてくる。

そんな中で、自分自身の言葉の価値を見失わないようにするのって、すごく大変なことだと思います。

だからこそ、一回立ち止まって考えてみることが、とても大事なんじゃないかなって。

自分が今、言おうとしているこの言葉は、本当に自分の心から生まれたものだろうか。
事実を曲げていないか。
誰かを不必要に傷つける凶器になっていないだろうか。
もしかして、自分の空っぽさを隠すために、ただ飾り立ててるだけじゃないだろうか、って。


周りの言葉の洪水にただ流されるんじゃなくて、ひとつひとつの言葉を自分でちゃんと吟味して、選び取ること。

そして何より、自分の言葉に誠実でいること。

それこそが、今の時代の危うさから自分を守って、本当に意味のある、豊かで成熟した人間関係を築いていくための、たった一つの方法なんじゃないかなって思います。






この記事の作り方(制作にかかった時間は15分です)

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