一昨日くらいに、法華狼さんからすげー失礼な記事がIDコール付きで届いてきた。
①的外れ(法華狼さん自身の論点しか考慮してない)
②決めつけ多数 (こちらの意図を勝手に推測しているがぜんぜん違っている)
③私にIDコールまでしているのに、私をダシにして私とゴミカス連中を一緒くたにして語ることで印象操作を図る
せめて③だけでも最低限の礼儀があればそれでも私は相手するのだが、あまりにも失礼すぎるので
「こちらに敬意のかけらもないコメントや、クソ記事には応答する義務はない(むしろするべきではない)」というルールに基づき、法華狼さんの相手はしない。
あえて応答するのであれば「最近ズイショさんやシロクマさんから送られてきたちゃんと敬意を感じるトラバ記事と比べて、法華狼さんの記事はどのあたりがカスなのか」について詳しく語ることになってしまう。
というかどうせ彼は人の話を聞かないからな……
そもそも法華狼さんが論点としているレイヤーは私にとって階層が低すぎるんですよ……。 別にそこのレイヤーで話がしたいなら勝手にやってくれたらいいけど私を低い階層の話に付き合わせないでほしい。
彼は私からすると「それは大前提だろう」という議論の余地のないところから一歩も出てこない。
ずーーーーっと小学生でもわかるレベルの話だけをしている。(そのレベルの話ですら間違いも多いので驚く)
それでも「私がわざわざそのレベルに降りていって相手の言い分を聞いて肯定してあげたら、その後は私のレベルに合わせてくれる」かというとそっちは全然耳を傾けてくれない。
そういう意味で、法華狼さんとは対話ができない。 対話ができないレベルで言うとあのfillinionさんよりもさらに二段階くらい上だという認識です。まだ三沢さんのほうが会話成立する余地がある。
ということで、今回の記事は失礼さがカンストしていたこともあり、彼の相手はしません。
ということで、言うまでもないけれど私はうさぎの絵を描いた人を叩いた連中は一番のアホだと思っています。
ただ、叩かれた人はこのようにツイートしている。
少しXから離れてみます。
— いなほ ゆら🐇 (@yura_inaho) 2026年3月23日
SNSは自分と同じ意見の人が集まりやすいので。
政治に関しては、同調されるのでなく、議論がしたい。
様々な意見を受け止めた上で、自分の考えを持ちたいのです。
(でもSNSでそれをやるとあんまり良くないので、信頼できる友人とやります)
素直に読めばいなほさんは叩いてきた人たちだけでなく、「自分のイラストにすり寄ってきた連中」も合わせて拒絶していると受け取るべきだろう。
反戦側の人はいなほさんの味方のつもりなのかもしれないが、いなほさん自身は、勝手に旗印にされてとても迷惑だっただろうなと私は理解した。
ただ、平和とか反戦を掲げている人たちって「自分たちも迷惑だったかも・・・」という感覚がまったくないんだよね。それが本当に恐ろしい。
「うさぎのイラストを描いた人は何も過激なことは言ってないのに攻撃された!」で思考停止してる。

繰り返すが、叩いてるやつが迷惑でどうしようもないアホであることは大前提である。
しかし、一見擁護しているようでその人を「盾」にして好き放題言っていた連中も同様に醜いと私は思う。
同調されるのでなく、議論がしたい。
様々な意見を受け止めた上で、自分の考えを持ちたいのです。
の意味をもう少し考えたほうがよい。
「セクシー田中」さんのときも、「堕天作戦」のときも正義振りたい人間は他人を自分の都合の良いように消費しようとしすぎだ。
最近私はこういう「正義欲」に飢えてる人たちに対してめちゃくちゃ嫌悪感が強くなっている。
どうしてこの手の「正義」を武器にして一発逆転を狙ってる系の人というのはこれほどまでに腐った臭がするのか……。
私は「怠惰な正義」というのが基本的に嫌いだ
正義心がないよりはあったほうが良いという人もいるだろう。
私も昔はそう思っていた。
でもSNS時代にはいってそれはもう通用しなくなっていると思う。
歪んだ正義心をもった人間が容易に力を発揮できるようになっているからだ。
以前は害が少なかった人たちの害が大きくなりすぎた以上、「怠惰な正義心」連中はちゃんとカスとして扱っていきたい。

1. はじめに:ある「うさぎの絵」が消された理由
ネットの海に投じられた、一枚の素朴な「うさぎの絵」。その純粋な筆致が、いまや現代SNSの醜悪な構造を象徴する「戦場」へと変貌してしまった。

事の発端は、緊迫するイラン紛争を背景とした国際情勢の悪化にある。
日本国内でも戦争への危機感が高まる中、あるユーザーが「平和を願います」という言葉とともに、一羽のうさぎの絵を投稿した。
投稿者本人の意図は、あくまで穏やかな「祈り」の表明に過ぎなかった。誰かを攻撃する毒も、特定の政党を揶揄する意図も、そこには微塵も存在しなかった。
しかし、この「平和」という耳当たりの良い言葉を掲げた無垢な表現は、瞬く間にネット上の凄惨な対立に巻き込まれ、最終的には投稿者がアカウントそのものを削除する、あるいはツイートを取り下げるという悲劇的な幕引きを迎えた。
一見すれば、これは「平和を願う弱者を、好戦的な右派層が寄ってたかってボコボコにした」という、よくあるネットリンチの構図に見えるだろう。
しかし、その理解でとどまっている人間は、半分しか正しくない。

叩いた連中を批判するのは当然のこととして、それ以外にも見落としてはいけない存在がいる。
真に批判されるべき「加害者」の正体は、別の場所に潜んでいる。
この「うさぎの絵」を描いた表現者を、自らの政治的運動の「道具」として消費し尽くした側の存在を無視してはいけない。
彼らは無自覚に個人を「旗印」として担ぎ上げ、都合が悪くなれば「弾除け」として使い捨てる。
この人たちは一人ひとりは決して悪人ではない。むしろ善人として扱っても良いかもしれない。
しかし一人ひとりが善意であったとしても構造的には相当邪悪な存在となっている。そしてそのことに自覚がないからどんどんアクセルを踏み込んでいっている。
その構造の邪悪さと、欺瞞についてそろそろちゃんと考えた方が良い。
個々人を責めているのではなくて、「構造的な問題」から目をそらすべきではないということだ。
お題目が正しければ行動が正しくなるわけではない。志やお題目が正しくても構造が邪悪なら、アウトプットは邪悪なものになる。
それができないうちは、この人たちが小学館を責めたところで、ただのダブスタであり説得力を持ち得ない。
2. 「平和の願い」を横取りする人々:構造的な利用の構図
今回の騒動で最も注目すべきは、投稿者本人が望んでいなかったにもかかわらず、その絵が「戦いの材料」へと強制的に変質させられたプロセスである。
投稿が注目を集め始めると、SNS上に生息する「ハイエナ」たちが即座に動き出した。
彼らは、他人の表現が持つ「バズ」や「注目度」を、自分たちの政治的主張を拡散するための燃料として「借用」しようとする。

以下のプロセスを経て、無垢な個人は「運動の旗印」へと祭り上げられていく:
・「注目の借用」という略奪行為: 影響力を持たない活動家たちが、注目を集めている投稿に便乗し、あたかもその表現が自分たちの仲間によるものであるかのように振る舞う。
・ 勝手に作成されたハッシュタグ: 投稿者の承諾も得ず、「#NoWarBunny」といった政治的なハッシュタグが作成・拡散される。
この瞬間、個人の祈りは「反戦・反政権運動」のプロパガンダへと書き換えられたのである。
石川優実さんのkutooのように本人が望んだのであればともかく、そうでない人からした超迷惑な行為であろう。
・ 無垢な個人の「シンボル化」: 自分たちの主張を正当化し、反対勢力を叩くための「盾」として、繊細な表現者を最前線に立たせる。
本人の静かな日常を守るという配慮は一切なく、ただ自分たちが気持ちよくなるための「駒」として消費する。

これは支援でも応援でもない。 他人の創造性を自分たちのイデオロギーで塗りつぶす、精神的な強奪(Appropriation)である。
彼らは「平和を願う善良な市民を助ける」というポーズをとりながら、その実、表現者の背後に隠れて安全な場所から石を投げているのだ。

実際本人が投稿を取り下げたあとでも「#NoWarBunny」のハッシュタグはそのまま使われ続けている。
この人たちは、「たたいたひとたちが悪い」というのは大前提だとしても、その上で「自分たちの行為もいなほさんに迷惑をかけたかもしれない」という反省は微塵も存在しないのだ。
「アレルギー反応」の正体:なぜ絵が叩かれたのか
批判側、具体的には保守層や高市政権支持層がこの絵に対して激しく反応したのは、うさぎの絵そのものに対してではない。
彼らが反応したのは、その絵の背後にまとわりつく「いつもの連中」の腐臭である。
批判側は、日頃から「平和」や「反戦」という言葉を盾に、高市政権や自分たちの価値観を一方的に罵倒してくる層に対して、極めて強いアレルギーを抱いている。
彼らは、うさぎの絵そのものではなく、その絵が拡散される過程で、そこに群がる「いつもの連中」たちの気配を敏感に察知したのだ。

この対立構造を整理すると、以下のようになる。
| 表向きの批判対象 | 実際の嫌悪対象(背後で利用する人々やその政治的匂い) |
| 素朴な平和への願い、うさぎのイラスト | その絵を政治的プロパガンダの武器として「利用」する勢力 |
| 投稿者個人の発信 | 「平和」を連呼しながら高市政権を執拗に攻撃する者たちの存在 |
| 表現の是非そのもの | 政治的意図を隠し、無垢な表現を自分たちの陣営に取り込もうとする卑怯な手口 |
批判側(高市政権支持層など)にとって、この騒動は「推し活」の延長線上にある。
自分たちの推す政治家を攻撃してくる連中が、またしても「無力な個人」を隠れ蓑にして攻撃を仕掛けてきた――そう判断したからこそ
彼らは「予防戦争」的にその絵を叩きに回ったのである。
個人的な感想だが私は「見た目は大人、精神年齢は子どもな残念な人達の低レベルな戦い」としか見ていない。
高市首相は明らかに問題のある行動をしているのに、批判するとすぐにキレる高市推し活勢が幼稚だというのは私も完全に同意であるが
高市を批判するために「高市は戦争をしたがってる」系の言説を撒き散らす「平和」だの「反戦」だの言ってる人たちもまた幼稚であると思っている。
思考のレイヤーが極端に低いレベルで留まっており、正直不毛なことをやっているなとシラけた目で見ている。
ここで最大の悲劇は、投稿者が両陣営の「政治的な喧嘩」における「弾除け(たまよけ)」にされてしまったことだ。

利用する側は、自分たちが矢面に立つリスクを避け、純粋な個人を盾にすることで
相手が叩けば「弱者いじめだ」と叫び、叩かなければ「自分たちの勝利だ」と吹聴する。
この卑劣な二段構えの構造こそが、善良な個人をネットから追い出す元凶である。
4. 「自分たちは悪くない」という欺瞞:利用した側の無自覚な暴力
投稿が削除され、表現者が沈黙した後、利用していた側が見せた反応は「恥知らず」の一言に尽きる。

彼らは「平和を願う自由さえ奪われた」と、いかにも被害者の代弁者であるかのように振る舞い、批判側を一方的に断罪し始めた。
しかし、冷静に考えてみればいい。投稿者を危険な戦場の最前線に引きずり出したのは誰か。
その絵に「主体的に、能動的に余計な意味」を付け足し、政治的な色を塗りたくったのは、他ならぬ自分たちではないか。
彼らには、「自分たちのせいでこの人を巻き込んでしまった」「自分たちがちょろちょろと余計なタグを付けたから、相手陣営の過剰な攻撃を招いた」という反省が微塵もない。
それどころか、自分たちを「正義の味方」として透明化し、すべての責任を対立陣営に押し付ける。
この「つける薬がない」ほどの無自覚さこそが、現代ネット社会における真の「邪悪」である。
自分たちが掲げた「旗」が撃ち落とされたとき、その旗を握らされていた個人が負った傷を見向きもせず、「相手が悪い」と叫び続けるその姿。
それは、もはや人間としての品性を疑わざるを得ない。
彼らは、自分が「平和」という言葉を使い、一人の表現者の居場所を奪った加害者であることを一生理解できないのだろう。

5. 『セクシー田中さん』事件から何を学んだのか:繰り返される悲劇
*1:※ここはいちいち言うまでもない大前提であり、私にとってはそこからようやく議論が始まるのだが、ここをゴールにしてしまっているのが法華狼さんなんです。レイヤーが全く違うのわかりますか?