先日、友人と「自分以外のオタクが叩かれている時にどう思うか」というところで少し話をした。 *1
友人と私で共通していたのは「自分はオタクだが、他のオタクに対して仲間意識や連帯の気持ちはない」という部分。
嫌いなオタクはたくさんいる。ダメな奴はダメだとは思う。個人としては手を取り合う必要はないよね、と言う点では特に争いはなかった。
だが、その一方で彼は「オタクという概念を安易に踏みにじる奴だけは、どうしても許せないのだ」とも語っていた。
彼は私と違って「オタク叩き」に対しては強い拒絶感を感じるのだという。
私はオタクといえども他人なんだから是々非々でいいだろと思うのだけれど、彼の場合は是々非々ではなく明確にオタクの側に立つ傾向があるということだ。

私は彼がいう「オタクという概念」というのがよく分からなかったので、彼との話をしながら少し掘り下げて考えてみる。
これが彼にとっても正解かどうかはわからないけれど、とりあえず私はこういう風に解釈したという話を書いておく。
彼がいう「オタクという概念」とはどういうものかを自分なりに整理してみる(これが100%の正解ではないとは思うけれど)
話を聞く限り、ここで言う「オタク」という在り方は、単にアニメやゲームを消費する人のことだけを指すのではない。
それは他者とうまくやっていけない人間が、できる限り周囲に迷惑をかけない形で、混沌とした現実をやり過ごすために作り上げた「代替的な世界のルール」のようなものだと考えられる。
理不尽な現実から自分を切り離したり、衝撃を緩和してなんとか精神の平穏を保とうとする、いわば「心の壁」である。

世の中の「正しさ」から見れば不備だらけかもしれないが、それでも彼らが彼らなりに、この世界で生きていこうと必死に手繰り寄せた、切実な生存戦略なのだ。
そうすることによって、なんとか決定的に破綻せずになんとか人間社会の中で適応しようとしているオタクは今でもたくさんいる、と彼は考えている。

彼が守りたいと願っているのは、「アニメやゲーム」そのものでもなければ個々のオタクという人間でもない。
なんとか他人に迷惑をかけず、踏ん張って生きていこうとしている人たちの平穏だ。
世間からはズレているかもしれないが、それでも「好きなものを好きだと言い、静かに自分の世界に浸って生きていても良い」という権利くらいは認められる。そんな世界が持つべき許容度そのものを大事にしたいのだ。

つまり「オタク」という在り方は、単にアニメやゲームを楽しむ人のことだけを指すのではない
ここまで説明すればわかるとおり、「オタクと言う概念を叩くやつが許せない」という感覚は
単に自分のオタク趣味を否定されてアイデンティティが傷ついた、というような自己防衛の話ではない。
彼が強い違和感を抱いているのは、オタク叩きの背後にある構造そのものだ。
どういうことかというと「いい大人のくせに」「現実を見ろ」「社会性が欠如している」のような
「教科書的な正しさ」を振りかざして人を殴ってくるやつらの存在が気に入らないのだという。
こうした言葉は、一見すればもっともらしい正論に聞こえるが、
実体としては「社会的な正しさ(ポリコレ)」のようふわっとした物差しを、特定の層に向けて絶対的な正義として一方的に押し付けているに過ぎない。

自分が殴られる側になることを想定してない、自分の正義を誰かに押し付けることで自分の正しさを確認して安心したいだけの、不安の解消行動にすぎない。
そんな身勝手な連中の自慰行為に、オタクをはじめとした「少しまともから外れてる人」がつきあわされるのが我慢ならないのだ。

「オタクという概念を叩く」という行為は、その許容度の境界線を無理やり狭め、結果としてこの世界をより息苦しく、優しくない場所に変えてしまう行為だ
何よりも彼が気に入らないのは、「ただオタクが気に入らない」だけではすまず、「存在そのものを否定しようとする態度だ」という。
オタクという概念の叩き手たちが無意識に抱えているのは「お前らは正しくないのだから、幸せになる権利も、楽しむ権利も認めない」という、徹底的に不寛容で「優しくない」論理だ。

彼が「許せない」と言ったのは、自分たちが定義する「正しさ」という武器を振り回し
なんとか自分を保って生きている人たちの足場を、嘲笑しながら崩そうとするその態度に対してだった。

ここで彼が求めているのは、オタクの欲望をなんでも肯定しろという話ではない。そんなことは全く要求していない
*1:※ちなみに彼自身は鉄オタであるが、撮り鉄をやらず、一人であちこちの電車に乗ることをひっそりと楽しむ乗り鉄である