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自分と感性がだいぶ違う友だちがいるのだけれど、
感性が違うからうまく行かないという話ではなくてむしろ逆。
自分と違う感性についてちゃんと言語化して伝えてくれようとしてくれるので
むしろその違いの部分が面白くて付き合いが続いている部分が大きい、という話をします。
自分は特殊だと思っているのに説明をしないで理解してもらおうということを望んでる人がいたら、できるだけ若い内に中島義道とか読んでボコボコにされたほうが良いと思う
人間の感性って、本当に千差万別だと思う。
同じものを見ても、感じる温度も色合いも全然違う。
それ自体は悪いことじゃない。むしろ、違っているからこそ世界は面白くなる。
ただ、ひとつだけ大事な前提がある。
「違う」という事実は、自動的に伝わるものではないということだ。
感性が違うなら、説明しないとわからない。
伝わりさえすれば、感性が違っていた方が新鮮で、刺激的で、会話が豊かになるのに、多くの人は「説明する努力」を怠ってしまう。
特に「自分は特殊だ」と自覚している人ほど、意外とそこでつまずく。
「わかってくれない人が悪い」
「普通じゃない俺を理解できない奴らとは、話が合わない」
そう思って、心の殻を閉ざしてしまう。
結果、周りを見下して孤立する。
特殊だと思えば思うほど、孤独を選んでしまう人が本当に多い。
自分を特殊だと思い込んで、周りを見下して孤立するという状態に陥る人はあまりにも多い。
つまり、そういう状態に落ちっている人は自分では特殊だと思っているがだれよりも凡庸な人間なのだ。
自分が見下しているやつよりもずっと「つまらない」人間なのだ。 残酷なことに。
自分で自分の価値を殺して自分を憐れんでも、ほかの人は自業自得だとか馬鹿だとしか思ってくれない。なぜなら普通の人はそんなに自分に興味がないから
本当に自分が特別な感性を持っているのなら、なおさら説明する価値があるはずだ。
だって、誰もその感性を代わりに言語化してくれないのだから。
自分が言葉にしない限り、相手には永遠に届かない。
届かなければ、理解も共感も、面白さの共有も生まれない。
説明するって、実はとても勇気のいる行為だ。
自分の「好き」や「嫌い」の根っこを、丁寧にほじくり返す作業だから。
「なぜこの表現が好きなのか」「なぜこの視点が心地よいのか」「なぜあっちは物足りないと感じるのか」——
それを論理的に、感情的に、具体的に言葉にする。
面倒くさいし、そこまで手間ひまかけて響かなかったり否定されたら心が傷つくからあまりやりたくないはずだ。
でも、その面倒くささを乗り越えた先に、驚くほど美しい景色が広がる。
相手が「へえ、そういう見方もあるんだ」と目を輝かせてくれる瞬間。
「それ、めっちゃ新鮮! 今まで気づかなかった」と素直に言ってくれる瞬間。
そこに生まれる信頼感と、会話の密度は、 「なんとなくわかるよね」で済ませる関係の何倍も濃い。
ここまできてはじめて、普通の人と違っていることが、魅力になる。
逆に、説明を放棄して「察してよ」オーラ全開でいると、どうなるか。
最初は「変わってる人だな」で済まされる。
でもだんだん「話が通じない人」「付き合いづらい人」になっていく。
そして本人は「やっぱり俺は理解されない」と、さらに殻を厚くする。
気の持ちようひとつで、同じ「特殊さ」が、 「評価される個性」にも「孤立の原因」にもなる。
「浮いてる」と思っている限り、ただの孤独で終わる。
「特殊だ」と認めた上で、それを相手に届ける努力をすれば、
それは「個性」として輝き始める。
実際、説明を頑張ってみると、反応は劇的に変わる。
「え、そこにそんな価値があったの? 教えてくれてありがとう」
そんな言葉をもらえるたびに、 「違うこと」を前提に楽しめる関係がひとつずつ増えていく。
説明をしたくないあまりに、「説明する」という行為の意味を、勝手にネガティブな方向に捻じ曲げないことが重要。やると決めたらポジティブな解釈をしたほうがよい
説明というと、「相手に合わせて自分を曲げること」だと感じる人もいるかもしれない。

