Mさんが最近書かれた記事を読んだ。
まず大前提として「なぜネットから批評や評論が消えたのか?」という問いの建て方自体が「多重質問の誤謬」なのだが・・・
それをいうと話が終わってしまうので今回はそこはあえて突っ込まないことにする。
つまり「ネットから批評が消えた(衰退した)」という点はあえて「真」であるとしたうえで感想を述べる。
三宅香帆に感化されたらしい……
この動画に乗っかる形で
「ネットに解説・考察ばかり増えて批評・評論が減った、それはなぜか」という問いを立てて、
2つの理由——偏差値教育とマナー文化——を挙げていた。
問い自体はとても面白い。
ネットを長く見てきた人なら「確かに何か変わった」と感じている感覚を、言語化しようとする試みとして素直に興味深く読んだ。
ただ・・・その答えの出し方に引っかかりが残ったので、その引っかかりを丁寧に書いていく。
まず、三沢さんの仮説を整理する
Mさんの主張をできるだけ公平に要約するとこうなる。
1️⃣仮説A:偏差値教育の影響
学校教育の中で「正解を当てる」訓練ばかりを受けてきた結果
作品に対して自分なりの軸を立てて評価する——つまり「正解のない問い」に向き合う力が育ちにくくなった。
だから考察(正解を当てるゲーム)は得意でも、評論(自分の軸を立てる行為)は苦手な人が増えたのだ
2️⃣仮説B:「好きを語れマナー」文化の影響
「嫌いなら見るな」「批判するな」というネット上の空気が強くなり
作品に対して否定的・批判的な評価を公に書くことへの心理的コストが上がった。
評論は対象への批評的距離を必要とするため、この空気の中では書かれにくくなった。
まぁ完全に間違っているわけではない。
どちらも「そういう側面はあるよね」という程度には頷ける仮説だ。
しかしこれで「批評が減った理由」の説明として十分か、というと、そうは思えない。
「なぜ」というタイトルを立てるときは「大きなところ」から考えた方が良い
ネットにおける批評・評論の衰退があったとしてその原因について考えるなら
2015年前後を境にネットのインフラ自体が根本的に変わったことを避けて通れない。
そもそも偏差値教育もマナー文化も、その前から存在していた。
その2つだけが理由ならもっと早く衰退しているはずだ。
それなのに、三沢さんの体感では「批評が減った」のが2010年代後半以降の現象として語られている。
かりにこの感覚が正しいとするのであれば、明らかに時間軸がおかしい。
この時間軸のズレを説明しようと真剣に考えれば、別の要因が浮かんでくるはずだ。
① アルゴリズムによる「長文の不可視化」
Twitterがタイムラインをアルゴリズムベースにしたのが2016年前後。Facebookは少し早く、2014〜2015年頃から大きく変わった。
この変化が何をもたらしたかというと「エンゲージメント(いいね・リツイート・滞在時間)の高いコンテンツが優先的に表示される」という構造だ。
長い評論文は読むのに時間がかかる。途中で離脱されやすい。
つまりアルゴリズム的に「弱い」コンテンツになった。
逆に短い感想、強い断言、感情を動かすワンフレーズは拡散されやすい。
プラットフォームの構造が、長い文章を書くインセンティブを静かに削いでいった。
これは「書き手の意識や教育」の問題ではなく、インフラの問題が大きいと考えるべきだ。
どんなに評論を書きたい人間でも、誰にも届かないなら続けにくい。
② 収益化の構造と「わかりやすさ」への圧力
YouTubeのパートナープログラムが本格化したのが2012年頃。
noteの有料記事・サブスクリプション機能が広がったのが2018年前後。
この流れの中で「コンテンツを書いて・作って収益を得る」という道が一般化した。
問題はここで「何が売れるか」という経済的なロジックが入り込んでくることだ。
解説・考察は需要が明確で、ターゲットを絞りやすい。
「鬼滅の刃の伏線を全部解説」「ブルアカのシナリオ考察まとめ」は検索からも流入しやすく、再生数・PVを稼ぎやすい。
一方で評論はどうか。
誰に向けて書いているのかが見えにくく、検索にも引っかかりにくく、Amazonアフィリエイトもつけにくい。
趣味として書くならともかく、「労力に見合うリターン」という観点では著しく不利だ。
つまり批評が減ったのは、書き手の能力や気質の問題だけではないのだ。
「批評を書くことが経済的に報われにくくなった」という構造変化の結果でもある。
少なくとも三沢さんの提唱する「偏差値教育」と「マナー」よりは遥かに要因として強い、ということは説得力があるのではないだろうか?
③ プラットフォームの短尺化・動画優位
ここからの話についてはあまり詳しくないので少し誤りがあるかもしれないが……
TikTokの国内普及が2018〜2019年頃。
YouTube Shortsが本格的に動き出したのが2021年。
これ以降、コンテンツ消費の主流がさらに「短い・動く・すぐわかる」へと急速にシフトした。
当然テキストの評論はこの流れの中で二重に不利になった。
ひとつは単純に「長い文字を読む習慣」を持つ読者層が、コンテンツ消費時間の中でテキストに割く割合が減ったこと。
もうひとつは、解説・考察は動画フォーマットと相性が良い(図解、音声ナレーション、テロップ)のに対して
評論は動画にしたときに魅力が伝わりにくいという非対称性だ。
「解説・考察は動画で伸びる、評論はテキストでしか機能しにくい」——この構造が、解説・考察の台頭と批評の後退を同時に推し進めた面がある。
という話くらいははできるだろう。
繰り返しになるが、③はあまり詳しくないので、そのあたりは詳しい人が補足してほしい。
【閑話休題】
これはてブ民も8割くらいの人間がやらかしがちな話なので気をつけた方が良いけど「一部当てはまることいえば批評や評論になる」わけじゃないからね。100点満点で10点とか20点の答案を出して俺はこの問題に価値ある視点を提供した!って主張する輩は三沢さんに限らずすごく多い。
「こういう側面もある」「こういう見方もある」というのであればそういうふうに書けばよいのだが「なぜ~なのか」ということであればまずメインの理由を抑え得られていないと話にならない。
それなのに、なぜか一つの側面を取り上げてそれが答えだとか、俺は斬新な視点を提供した!って思いたがる人は結構いる。
馬鹿すぎる。
はてブ民は特にその傾向がめちゃくちゃ強い。
80点くらいの答案に対して駄目だししながら20点の答案をだして勝ち誇ってる人結構たくさんいる。
それは単にできの悪い考察であって、批評や評論じゃない。ラベルを張り替えて自分のレベルの低さから目をそらすのはNGっすよね。
まじで見てるこっちがきついから勘弁してほしい
以上を踏まえたうえで三沢さんへのダメ出しを開始する。

*1:ちなみにこれだけの文章を三沢さんは5000文字くらいかけて書いている。でもまじで中身はこれだけしかない。中身スッカスカのものを余計な要素で文字数だけ増やしたらすごいみたいな考え方はいい加減卒業してほしい。