「ブスコパン」という薬の名前を聞いたことがあるだろうか。
私がこの薬の名前を初めて覚えたのは、佐々木倫子のマンガ「おたんこナース」だった。
看護師を主人公にした医療マンガで、第一話にブスコパンが登場するシーンがある。

それ以来、「腹痛の薬といえばブスコパン」という印象がずっと頭の片隅にあった。(実際には胃痙攣・生理痛など幅広い用途で使われている)
SNSを見ていると、同じようにこのマンガでブスコパンの名前を覚えたという人が少なくない。
それだけ長く、広く、人々の生活に根付いていた薬だということだと思う。
その「ブスコパン」が、今年(2026年)の12月を最終出荷として、医療用としては販売中止になることが発表された。
ブスコパンとはどんな薬か
正式名称は「ブスコパン錠10mg」。製造販売元はサノフィというフランスの製薬会社で、1956年から販売されている、70年の歴史を持つ薬だ。
有効成分はブチルスコポラミン臭化物で、胃腸の筋肉の痙攣を抑える「鎮痙剤」に分類される。
平たく言えば、胃や腸がキリキリと痛むときに、その痛みの原因となっている筋肉の過剰な収縮を抑える薬だ。
具体的には以下のような場面で使われてきた。
・胃痛・腹痛(急性のさしこみ痛など)
・生理痛(月経困難症)
・胆石・尿路結石による痛み
・過敏性腸症候群(IBS)
・胃カメラ前の前処置(胃の動きを止めて観察しやすくする)
これだけ幅広い症状に対応できる薬で、しかも70年間使われ続けてきたということは、それだけ医療現場での信頼が厚かったということでもある。
SNS上では「夜間診療でよく出してた馴染みある薬」「なくなったら胃痙攣が起きたときに何を飲めばいいのか」「命の恩人」といった声が次々と上がっており
現場の医師も患者も少なからずショックを受けている様子がうかがえた。
「医療用」が消えて「市販薬」は残る——この違いが重要
ここで非常に重要なポイントがある。今回販売中止になるのは「医療用のブスコパン」だけであって、「市販薬(OTC)のブスコパン」は引き続き販売される、ということだ。
OTCとは「Over The Counter」の略で、医師の処方箋なしにドラッグストアなどで購入できる薬のことを指す。
ブスコパンの場合、エスエス製薬から「ブスコパンA錠」という名称で市販されており、こちらは今後も継続して販売される予定だ。
「じゃあ市販薬があるなら問題ないのでは?」と思う人もいるかもしれない。
しかし、医療用と市販薬では、同じ有効成分を含んでいても、使える場面と費用の面で大きな違いがある。
まず使える症状の範囲が違う。
市販薬は「自分で判断できる範囲の症状」に使用が限定されておりブスコパンA錠の場合は胃痛・腹痛・さしこみ・胃酸過多・胸やけに限られる。
一方、医療用は医師の診断のもとで使われるため、生理痛(月経困難症)、過敏性腸症候群、胆石・尿路結石の痛みなど、より幅広い症状に処方できた。
つまり、生理痛や過敏性腸症候群でブスコパンを使っていた患者にとっては、市販薬では同じ用途をカバーできないことになる。
次に費用の問題がある。
医療用は保険が適用されるため、ブスコパン自体の薬価は1錠あたり6.3円という非常に低い価格で、患者の自己負担は極めて小さかった。
ところが市販薬は全額自己負担になり、ブスコパンA錠はドラッグストアやAmazonなどで20錠入りが1,000円から1,500円程度で販売されている。
もちろん診察代は別途かかっていたわけだが、慢性的に処方されていた患者にとっては、毎月の出費が大きく増えることになる。
さらに「この薬でないと効かない」という患者が一定数存在することも現実だ。
薬は成分が同じでも、添加物や製剤の違いなどによって体への作用が微妙に異なることがある。
実際、過去に医療機関でブスコパンをジェネリックに切り替えたところ「効かない」という患者が続出し、結局ブスコパンに戻したという事例も報告されている。
なぜ医療用だけが販売中止になるのか——薬価制度の問題
ここが今回の問題の核心部分だ。なぜ70年も使われてきた薬が突然なくなるのか。
その答えは「薬価が低すぎて、作れば作るほど赤字になるから」に尽きる。
日本では、保険診療で使われる薬の価格(薬価)は国が決定する。
そして特許が切れた先発薬(長年使われてきたオリジナルの薬)には
ジェネリック医薬品(後発品)が登場するため、国は「長期収載品」という分類に組み込み、「G1ルール」と呼ばれる制度を適用する。
このルールのもとでは、後発品の薬価を基準にして、先発品の薬価が毎年段階的に引き下げられていく仕組みになっている。
ブスコパンの場合、後発品として「ブチルスコポラミン臭化物錠10mg『ツルハラ』」が6.6円で存在している。
先発品であるブスコパンはそれに合わせて6.3円にまで圧縮された。1錠6.3円である。
医薬品の製造には原材料費・製造コスト・品質管理・流通コストなどがかかるが、その水準でまともな利益を出すことは極めて難しい。
「医薬品がフリスクより安く作れるわけがない」という現場からの声は、決して大げさではない。
この構造は、ブスコパンに限った話ではない。
同じく長年使われてきた利尿剤「ラシックス」や、便秘薬「ヨーデルS糖衣錠」なども販売中止が発表されており
医療現場では「基本の基みたいな薬を次々と失っている」という危機感が広がっている。
加えて、ブスコパンはフランスのサノフィという外資系メーカーが製造している。
日本市場での薬価がこれほど低く抑えられていては、外資系企業にとって日本の医療用市場に薬を供給し続けるメリットは薄れる一方だ。
今後、外資系メーカーが手がける医療用医薬品が日本市場から撤退するケースは、さらに増えていく可能性が高い。