数ヶ月前から、生成AI丸出しの文章をブログに投稿するようになった。
当然、「文章の質が落ちた」「生成AIやめろ」という声もそれなりに来た。その気持ちはわかる。でも、やめるつもりはない。その理由を書いておきたい。
読み手が求めているものはわかっている
読み手の人が文章に何を求めているか、たぶんこういう段階があると思っている。
最初は情報だ。
知りたいことが書いてあるから読む。これはわかりやすい。
でも読み慣れてくると、情報だけでは物足りなくなってくる。
次に求めるようになるのが感情だ。
偉い人が「大衆は情報を食っている」と言ったネットミームが人気だけれど、実際は意外とそうでもない。
むしろ文章に感情を求めている人の方が多いんじゃないかとすら思う。
自分の感情を動かしてほしい、そのために他人の感情の動きにふれたい、という欲求だ。
だからこそ「○○さんのファン」みたいなものが生まれる。
さらに欲が出てくると、今度は個性を求めるようになる。
整った文章よりも、バランスの崩れた文章の方が面白くなってくる。
どこを強調するのか、何を省略するのか、何について語るときにやたらと熱量が上がるのか。
そういうところに滲み出てくるその人の好き嫌いや偏執みたいなものを、ねっとり観察するようになる。
この「感情→個性」という流れは、プロの書き手よりも素人の書き手を読むときに特に強く出る。
プロの文章は整いすぎていて、そういう「漏れ」が少ないからだ。
「生成AIの文章はダメだ」という反応の正体は、おそらくここにある。
情報は手に入る。でも感情が薄い、個性が感じられない、という不満だ。
AIが書いた文章は「漏れ」がないから、そこに求めていたものが見つからない。
そういう不満は合理的だと思う。
そしてその感覚は、今後さらに強くなっていく可能性もある。
生成AIが普及するほど、「人間が書いた文章」の希少性は上がっていくからだ。
でも、読み手の人は書き手のニーズ(書き手は何のために文章を書いてるのか)って考えたことある?
ただ、ここで一度立ち止まって考えてほしいことがある。
読み手は読み手のニーズで文章を読んでいる。それはそうだ。
でも書き手にも、書き手のニーズがある。そしてその二つは、必ずしも一致していない。
私がなぜ文章を書くかというと、突き詰めるとこういうことだ。
- 自分の感情や思考を整理したい
- それをアーカイブとして残したい
- 「自分の理解はこれで合ってるか?」を検証したい
- 一人では気づけない視点や概念を得たい
- 壁打ち相手であり、気を遣わずに済む相手ががほしい、
「読者に伝えたい」という気持ちがないわけではない。(かなり丁寧に書いてきたので、「そんなもの感じられなかった」と言われると辛い・・・)
ちゃんと読もうとしてくれる人、受け取ってくれる人には、いつも素直に感謝している。
ただ、書き始めの動機として一番強いのは、上に書いたような「自分のための」ニーズだ。読者に届けることは、あくまでもその延長線上にある。
そしてこれは、私だけの話ではないと思っている。
ブログを書いている人の多くは、最初は「誰かに読んでもらいたい」より先に「自分の中にあるものを外に出したい」という衝動から始めているんじゃないか。
読者はその後からついてくるものだ。
生成AIは、書き手のニーズをかなり満たしてくれる
そしてここが本題なのだが、生成AIはこの「書き手のニーズ」に対して、非常によく応えてくれる。
思考を整理したいとき、丁寧に説明しなくても汲み取って「こういうことでしょうか?」と返してくれる。
自分では気づいていなかった概念や理論を教えてくれることもある。
「これで合ってるか?」という検証にも付き合ってくれる。気を遣わずに何度でも壁打ちできる。
今まで一人でやっていたこと、あるいは誰かに頼みたくてもなかなか頼めなかったことを、かなり高いレベルでカバーしてくれるようになった。
長い間読んでくれてて自分のことを理解してくれてるなーという人なんかは別格として、通りすがりの読者よりは生成AIに読んでもらうほうが嬉しいまである。
だから使っている。それだけのことだ。
結果として、書き手としての意識はだいぶ変わっている
こういう状況になって、書き手としての意識が以前と変わったのは正直なところだ。
以前の書き方を振り返ると、こういう流れだった。
・まず自分の中でモヤモヤしたものがある。それを一人で言語化しようとする。
・うまく言えなくて何度も書き直す。・ある程度形になったら、今度は「これで伝わるか?」と読者の目線で整える。
・その過程でさらに考えが深まることもある。
この一連の作業は確かに価値があった。
でも正直に言うと、そのほとんどは「読者のために」やっていたわけではなかった。
自分の思考を整理するために、読者という存在を借りていた、という方が近い。
今はその「借り物」の部分を、生成AIが担ってくれるようになった。
モヤモヤをぶつければ整理してくれる。
検証したければ付き合ってくれる。
壁打ちしたければ何度でも応じてくれる。
しかも相手が疲れることもないし、気を遣う必要もない。
だからといって、読者が不要になったとは思っていない。
生成AIには返せないものを返してくれる読者は確かにいる。
自分とは違う文脈や経験を持っていて、思いがけない角度からフィードバックをくれる人。そういう存在はやっぱり貴重だ。
ただ、「とにかく多くの人に読んでもらわなければ」という感覚は、以前よりずっと薄れた。
書き手のニーズの多くが別の形で満たされるようになったのだから、当然の変化だと思っている。
今が完成形だとは思っていない
生成AIを使った文章にまだぎこちなさがあるのは、自分でもわかっている。
ただ、手書きで書いていた頃の記事を100点の基準にして、そこからの劣化として評価してほしくはない。
あの頃と今とでは、書き方のアプローチそのものが変わっている。
今は、新しいやり方を使い始めたばかりの書き手が、試行錯誤しながら改善していっている過程だ。
使い続けながら、もっとうまくなっていくつもりでいる。
その過程を、できれば一緒に見ていてもらえると嬉しい。
※本記事はまずこちらに手書きで書いた内容を、Claudeと会話しながら論点や構成を整理して、リライトしてもらったものです。
おまけ:生成AIで文章を書くということの価値の本体は「書いてもらう部分」じゃない
生成AIで文章を書くと言うと、「指示を出したら勝手に文章が出てくる」というイメージを持たれることが多い。
でも上の文章、ポン出しで出せないでしょ? そこまで簡単ではないですよ。