頭の上にミカンをのせる

もうマンガの感想だけでいい気がしてきた

東大生というだけでノブレスに見える人がいるらしい

ネタにマジレスするなという話なんだけど、ネタじゃなく本気で勘違いしてる人もいそうなので一応まとめ。

最初からネタで言ってた人は反論する必要ないと思うのでそっ閉じ推奨。




「東大を出たなら社会に貢献すべきだ」

という言葉は一見もっともらしく聞こえる。

だがその裏にある「東大卒=ノブレス」という発想はそもそも語源から間違っており、歴史的文脈も読み違えている。

東大生がノブレスオブリージュを求められるような立場を目指して、その立場になる前から責務を意識するのは尊いのでどんどんやれば良い。実際官僚になったり商社に就職する人の中にはそういう意識を持っている人は結構いる。

とはいえ、東大生にノブレスオブリージュを果たせと迫る人は知識や認知に深刻な課題があると言わざるを得ない。

さらに奇妙なのは、多くの人がノブレスという言葉が何を意味するのかすら興味を持たないまま、この言葉を盾に取ることだ。他人に義務を求めるというとんでもない要求をしてるのにその根拠について深く考えないというのはかなりやばい。レベルの差こそあれ思考の方向性は暇アノンと変わらない。


なぜそういう勘違いが生まれるのか。



1 ノブレス・オブリージュとは何か——語源から確認する


Noblesse Obligeはフランス語。

noblesse+ obligeから構成されており

直訳すると「高貴さは義務を強いる」。

初出は1808年、フランスの格言作家ピエール=マルク=ガストン・ド・レヴィの著書。
1836年、バルザック『谷間の百合』で引用されて広く知られた。

この概念のルーツをたどれば、その意味は明確だ。

封建制度のもとで貴族は生まれながらにして土地・財産・裁判権・免税特権を与えられていた。
その「与えられた特権」の代償として、戦場での先頭、領民の保護、公共インフラの整備、貧民救済を担う義務があった。
特権と義務は表裏一体であり、切り離せない。


より古い思想的背景としては

新約聖書のルカによる福音書12章48節「多く与えられた者には多く求められる」というキリスト教的倫理がある。

古代ローマのパトロン=クライアント関係、中世騎士道の「主君は民を守る」精神も同じ構造だ。

共通しているのは「自分が生まれながらに受け取ったものの大きさに比例して、社会への返済義務が生じる」という論理である。

ノブレス・オブリージュの核心は


「特権が先にある」


ということだ。義務は特権の後払いとして発生する。特権なき者に義務だけを求めるのは、この概念の根本的な誤用である。



2 東大卒を「ノブレス」と呼べるか?

この論理に照らしたとき、「東大卒=ノブレス」という等式は成立するか。


答えは明確にNoである。


理由は構造的だ。


東大合格は、受験競争という競争システムを勝ち抜いた「成果」である。それは血統でも生得的な身分でもない。meritocracy(実力主義)の産物だ。

ノブレスが意味する「生まれながらの高貴さ」とは、本質的に異なる。

封建時代の貴族が「選ばなかった特権」を持っていたのに対して、東大生は自ら選んで猛烈に勉強し、試験をパスした。この二つは似て非なるものだ。


封建貴族のノブレス
生まれによって決定するもので、そこに選択の余地がそもそもない。土地・財産・免税特権が自動的に付与されるというレベルの特権があり、その代償として義務が生じる。



東大卒のステータス
生まれだけで自動的に手に入る要素ではない。努力と選択の結果であり、試験に合格することで得るもの。

「特権」ではなく「機会へのアクセス権」に近い。義務を強いる根拠が本来存在しない。


もちろん、東大入学には「家庭の経済力・教育環境」という恵まれた条件が下支えしている面がある。完全な自力でないのはいうまでもない。

しかしそれは「家庭環境の格差問題」として論じるべきことであり、「ノブレス・オブリージュ」という貴族倫理の文脈で語るべきことではない。

概念を適切に使うならば、それは教育格差の是正を求める社会政策の問題として語るべきだ。

この区別ができていないのはいくらなんでも解像度が低すぎであり、議論の入り口にも立てていないと言わざるを得ない。



さらに現実的な問題として、今は「東大卒に国家奉仕を求める」インセンティブ構造が崩壊している。

天下り規制で将来設計が不透明になり、給与は民間の半分以下、激務は変わらず、加えて大衆からは「税金泥棒」のレッテルを張られる。こうした状況で「ノブレスなのだから官僚になれ」と言うのは、倫理的な説得力以前に、単純に合理性がない。







3 なぜこのような勘違いをする人が出てくるのか?ネット民の異常なまでの東大コンプレックスはどこからくるのか?


概念の誤用であることを丁寧に説明しても、「東大卒にノブレス・オブリージュを」という言説はなくならない。

なぜか。

それはこの発想が、論理的な誤りではなく、特定の心理的・社会的欲求を満たしているからだと思う。



仮説A:「努力の成果」を「与えられた特権」と読み替える認知の歪み

人間は他者の努力の成果を「持っているもの」として見る傾向がある。

東大に入るためには多くの場合、経済的に余裕のある家庭での教育投資、塾、長時間の学習が必要だ。

その意味では、東大生の多くは確かに「恵まれた環境」の受益者でもある。

しかし、ここで重要な認知の歪みが起きる。「恵まれた環境を活かして努力した結果」が、いつの間にか「最初から特権を与えられた存在」という読み替えをされてしまうのだ。

前者と後者の間には本質的な差異がある。前者は機会の格差の問題であり、後者は存在論的な身分の問題だ。

この二つを混同することで、「与えられた者だから返す義務がある」というノブレス・オブリージュの論理が、一見成立するように見えてしまう。


より正確に言えば、この発想の背後にあるのは「応分の負担」という直感的な公平感だ。

「多くを受け取った者は多く返せ」という感覚は人間として自然だし、ある種の社会倫理としても正当性を持つ。


なので、上野千鶴子の東大講演を絶賛していたはてブ民は、あまりにも感情を人質にしたレトリックに弱すぎてチョロすぎて心配になるし、自分以外の他者への想像力を欠いているくせに自分は共感性が高いと勘違いしている愚かな生き物だとは思うものの、決して完全に間違いというわけではない。


問題はそれを「ノブレス・オブリージュ」という、貴族的な生得的特権を前提とした概念に接続してしまうことで、議論が混濁することだ。


概念の器を誤っているのである。



つまり何が言いたいかというと、「多くを受け取った者は多く返すべき」という公平感覚は別に否定していない。


しかしそれは再分配政策・教育格差の是正・社会制度の問題として論じるべき話であり、「ノブレス・オブリージュ」という13世紀的な貴族倫理の枠で語るのは概念の誤用であるということだ。


感情は正しいが、使う言葉が間違っているので、ちゃんと区別した方がいい。



自分ごととならともかく、他人の権利や義務について論じているのにあまりにも雑な人は、他の面でも他人を雑に扱う自己中な人間である可能性が高い。

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