一昨日、「ツイッターのAI、反AI」のいざこざを楽しんでウォッチしているという人から話を聞いた。見せてもらったやり取りを眺めていて、最初に浮かんだのは単純な違和感だった。
生成AIの人たちと反生成AIの人たち会話は、議論として全く機能していない
そこで交わされていた言葉を追ってみると、奇妙なことに気づく。どれだけ言葉を重ねても、情報が一つも増えていかないのだ。
普通、議論というのは互いの主張の根拠を検証し合い、間違いを修正し、論点を精緻化していく過程のはずだ。
しかしそこにあったのは、双方が自分の主張をただ強い語気で繰り返しているだけの光景だった。
相手の指摘を受けて知識を修正する、論点を絞り込む、といった反応がどちらの側からも起きない。
だから当然、話は前に進まない。同じ場所を延々とぐるぐる回っているだけだ。
これは「反AIだから程度が低い」という話ではない。
賛成・反対のどちらの立場に立つかを問わず、誰でも同意できる基準で見て、単純に議論として機能していないという事実の話だ。
目的と行為が切り離されている
さらに気になったのは、この行為が何のためにあるのか、という点だ。
彼らがどれだけこれを繰り返したところで、「反AI」の人も「反・反AI」の人たちも何かを手に入れることはない。
AIの開発や利用が、この応酬によって抑制されたり促進されたりするわけではない。
おそらく本人たちも、自分の行動によって現実が動くとは思っていないだろう。
もし本気でAIの流れを止めたいのであれば、この行動はあまりにも非効率的すぎる。
つまりこれは、目的合理的な行動ではない。
目的のための手段ですらなく、目の前の気に入らない相手に嫌がらせをしたいという、それだけのためにヒートアップしている行為に見える。
つまり反AIというのはネタフェミとやってること同じなのだ。オタク版のネタフェミ。
何一つ自分で価値あることができず、人の嫌がらせをすることにだけ暗い喜びを見出す救い難き輩。
それと同じことをやっててはずしかならないのだろうか。ならないんだろうな。
相手を人間として扱っていない
そして一番具体的に引っかかったのは、対話の相手を「対話の相手」として扱っていないように見えることだ。
やり取りの内容そのものよりも、応酬の回数や「勝ち負け」に注目しているような様子がうかがえる。
相手が実在の人間であるという前提に立てば当然出てくるはずの配慮――トーンを調整する、誤解の可能性を留保する、といった動作がほとんど見られない。
ソシャゲーのポチポチゲームをやっている感覚に近いのだろう。
目の前にいるのが人間だという感覚自体が薄いように思えた。
相手の発言を要約し直す、言い換えて確認する、といった「聞く」動作がほとんど見られなかった。
自分の立場を守ることそのものが目的化していて、相手を理解する、あるいは着地点を探るという発想がそもそもない。
正直、私はこんなものを見ても全く楽しいと思わない。おじさんの残り人生は短いので、こういう話につきあわせないでほしいと思った(笑)。
ここで話し終わりにしてもいいのだけれど、ここまでは話の枕で、ここからが本題です。
「こんなものを見て面白いと感じる人」の気持ちがわからなかった
というわけで、私は「これを見て面白いと感じる人」の気持ちが正直よくわかっていなかった。
毎日この不毛なやり取りを熱心に見ている人から「なぜみているのか」を説明をされるまで私はせいぜい、「動物園の猿」や「はてな村から脱走した元はてなアイドル」を眺めるような、珍獣観察的な感覚なのかと思っていた。
だが話を聞いてみると、そういうわけでもないらしい。
彼は「どう考えても理解されない振る舞いをしている人たち」を見ると、なんだかかわいそうになって理解してあげたいと思うのだという。
それどころか、自分も他人から理解されなかった経験が多いからシンパシー的なものすら感じられるのだという。
彼は実際、そういう人たちがスペースを開いていたら、いきなりそこに飛び込んで話を聞いたりするらしい。
その行動力自体には素直に感心する。
ただ、「では実際に話をしてみて、彼らがどういう人間で、どういう思考回路で、なぜこんなことをしているのか、何かわかったことはあるか」と尋ねてみると、結局よくわからないらしい。
というより、そこをきちんと理解しよう、言語化しようという意志自体があまりないようだった。
私からしたら「え、言語化しようとしないなら、まじで見ても無駄なのでは?」と思ったのだが、そうではないらしい。
考え方が根本的に異なるのだ。
「他者を理解する」ということに対する考え方が根本から違う
私の場合
Mさんやチラムネのように、気に入らないものが妙に注目や評価を集めていると、とりあえず中身をきちんと見て、調べて、彼らの言っていることを自分なりに言語化しようとする。
表現が下手なら「こういうことが言いたかったのでは」と代わりに整理してみるし
思考が浅いなら「ここまでは考えられているようだから、あとはこのあたりが足りないのでは」と余計なお世話で補足してみることもある。
そこまでやっても、結局は「俺にはわかんねー」で終わることがほとんどだ。
それでも、そこまでやって わからなかったのなら、少なくとも心のモヤモヤは晴れる。
私にとって「理解しようとする」とは、そういう行為だ。
ただし、ここで重要なのは、私のこのやり方が発動するためには、対象の側に解読すべき何かが必要だということだ。
Mさんやチラムネには、「なぜこんなものが評価されているのか」という謎がある。
謎があるからこそ、知りたいという動機が生まれ、言語化しようという意欲が湧く。
この観点でいうと、反AI界隈のやり取りには、そもそもこの謎がない。
彼らの言動には解読すべき論理も一貫性もなく、私にとってはただの雑音として処理されてしまう。
だから嫌悪感は覚えても、理解したいという欲求そのものが起動しない。
一方、彼にとっての「理解してあげたい」は、そうやって言語化することではないらしい。
否定せず、距離を取らずに近くに寄っていく。そして相手が話したいことを好きに話させてやる。
そういう行為なのかもしれない。
結局、話している内容自体はほとんど理解できていないようなのだが
「理解できないままでも否定せず、会話を拒否しない」ということ自体が彼のやりたいことなのだろう。
つまり彼にとっては、対象に論理があるかどうかは、そもそも前提条件になっていない。
理解できるかを問わずに近づいていく態度だから、対象がどれだけ支離滅裂であっても関係がないのだ。