高市政権の財政スタンスを批判したら、「高市さんのこと、支持してましたよね?」と言われたんだけど、なんで支持したら、彼女のやることなすこと全てに賛同しないといけないんだろう。良いところは良い、悪いところは悪いでいいじゃんね。なお、最近の高市さんにはガッカリしています。
— 米国市場これ読んどけメモ (@Market_Letter_) 2026年7月25日
高市政権の財政スタンスを批判したら、「高市さんのこと、支持してましたよね?」と言われたという人のツイートだ。
当たり前だがある政策で高市さんを支持したからと言ってその後の彼女の政策すべてに賛同する義理はないはずだ。
良いところは良い、悪いところは悪いと言う——それだけのことのはずなのに
なぜか「支持していたなら黙って支持し続けろ」という圧力がかかる。
これは高市さんに限った話ではない。
政治家でも、企業でも、有名人でも、一度「良い」と言った対象について
その後の欠点を指摘した瞬間に「手のひら返し」「裏切り者」というレッテルを貼られることがある。
逆に一度「悪い」と評価した相手が良いことをしても、素直に認められない。
支持か不支持か、味方か敵か——その二択に、細かい是非の判断が呑み込まれてしまう。
こうした光景は、SNSでは特によく見かける。特にはてブの人は非常にそういう傾向が強いと思う。
はてなブログ使ってるし色々ご依頼も頂くので言いにくいことなんだけど、未だにはてなブックマーク使ってコメンテーターやってる奴らって殆どもう"今の普通"の感覚が無い古代ネットの地縛霊みたいなヤバイのしか残ってないんだよな……少なくとも昔のようにはてブ数を記事のKPIにする価値はゼロと思う
— 赤祖父 (@akasofa) 2024年7月9日
だが私はこれを「よくある人間の弱さとか頭の悪さ」として片付けたくない。
はてブの人たちが頭が弱いのは大前提であるがそれだけではない。
これは気の緩みや性格の問題ではなく、ある種の発達段階に到達しているかどうかの問題なのではないかと思っている。
ポストフォーマル思考という発達段階の話
「支持したら全肯定、批判したら全否定」という思考に陥る人は
単に注意力が足りなかったり、たまたま感情的になっていたりするわけではない。多くの場合、矛盾を矛盾のまま扱う思考様式に、まだ到達していない。
心理学者ジャン・ピアジェは、子どもの認知発達を感覚運動期、前操作期、具体的操作期、形式的操作期という4段階に整理した。
最後の形式的操作期は、だいたい11〜12歳以降に現れるとされ、抽象的な概念を頭の中だけで操作し、仮説を立てて論理的に検証する力がここで身につく。
ピアジェ自身は、この形式的操作期を発達の最終到達点とみなしていた。

ただし、その後の発達心理学者たちは、これに異を唱えた。
(参考:エージェンシーの知覚とバーチャルな信念の形成(小野田)など)
形式的操作は確かに強力な思考様式だが、白黒をはっきりつけようとする傾向が強く
矛盾を「どちらかが間違っている」ものとして解消しようとする癖がある。
ところが現実の人生は、矛盾やグレーゾーンだらけだ。人間関係も、仕事の判断も、政治への評価も、綺麗に白黒つけられることの方が少ない。
そこで提案されたのが「ポストフォーマル思考(後形式的思考)」という考え方だ。

これは対立する二つの意見や矛盾する情報を、どちらかを切り捨てるのではなく統合してより高次の理解に達しようとする思考様式だ。
真理や正解は文脈によって変わりうるという前提に立つ。研究者によっては、これを発達の「第5段階」として位置づける。
重要なのは、この段階は誰もが自然に到達するわけではないという点だ。
形式的操作までは、多くの人が思春期を通じて獲得する。
しかしポストフォーマル思考は、経験や訓練、意識的な内省を積み重ねた末に
大人になってから初めて獲得されうるものであり、実際には大人になっても到達しないままの人が少なくないと考えられている。
はてブ民がドヤ顔でコメントする「支持していた人を批判したら裏切り者」という反応は、まさにこの段階に至っていない典型例だ。
「支持していた」という過去の評価と「今回の政策には問題がある」という現在の評価。
この二つの矛盾する情報を統合できず、どちらかを切り捨てることでしか処理できない。
これは弱さや意地悪さの表れというより、思考のOSがまだそこまでアップデートされていないという、わりとフラットな事実として捉えた方が実情に近い。
形式的操作期の限界:矛盾は「解消」するもの
まず、形式的操作期の思考がどういうものか、具体的に見ていこう。
この段階に達すると、目の前にない抽象的な概念——正義、自由、確率、変数——を扱えるようになる。
「もしAならばBになるはずだ」という仮説を立て、それを論理的に検証する力もここで身につく。
数学の方程式を解いたり、政策の是非を論理的に論じたりできるのは、この形式的操作のおかげだ。
ただし、この思考には特有の癖がある。
それは、矛盾を「解消すべきもの」として扱うという癖だ。
形式的操作の枠組みでは、ある命題は真か偽かのどちらかであり、両方が同時に成り立つことは論理的な誤りとみなされる。
この枠組み自体は数学や論理学では正しい。
しかし、これをそのまま人間関係や社会的評価に当てはめると、無理が生じる。
たとえば「高市さんを支持していた」という過去の評価と
「高市さんの財政スタンスには問題がある」という現在の評価は、論理的には何も矛盾していない。
人間は複数の側面を持つ存在であり、ある政策は評価でき、別の政策は評価できない、というのはごく普通のことだ。
しかし形式的操作止まりの思考は、この二つを「矛盾」として認識してしまう。そして矛盾を解消するために、どちらか一方を切り捨てる。
このとき選ばれやすいのが、「相手を裏切り者として断罪する」という解消の仕方だ。
「あなたは以前、高市さんを支持していたはずだ。それなのに今批判するのは矛盾している。ゆえに、あなたは信用できない、あるいは一貫性がない」という論法である。
これは形式的には筋が通っているように見えるが、前提となっている「支持=全肯定、批判=全否定」という二分法そのものが粗すぎる。
同じことは、逆方向にも起きる。
一度「あの人は敵だ」と評価した相手が良いことをしても、それを認めると「敵」という評価と矛盾するため、素直に評価できない。
「どうせ下心があるはずだ」「たまたまだろう」と、良い面を無視するか矮小化することで、矛盾を解消しようとする。
興味深いのは、この行動パターンは「批判する側に特に多く見られる」という点だ。
一部を評価しただけで「あの人はあれを支持していた」と決めつけられ
その後の批判を「手のひら返し」として攻撃されるケースが典型例である。
おそらくこれは、「以前は肯定していた自分」を否定したくないという心理と結びついている。
相手を「一貫性のない裏切り者」と断罪することで、自分自身の過去の判断を守ろうとしている面があるのだろう。
いずれにせよ言えることは形式的操作止まりの思考は、矛盾を統合する力を持たないということだ。真か偽か、支持か批判か、味方か敵か——常にどちらかを選び取ることでしか、認知的な収まりをつけられないのだ。
ポストフォーマル思考は矛盾を「抱えたまま」判断することを可能にする

これに対して、ポストフォーマル思考は根本的に異なるアプローチを取る。矛盾を解消すべき誤りとしてではなく、現実にはそういうものだという前提からスタートするのだ。
ポストフォーマル思考の中核にあるのは、相対主義的思考と弁証法的思考の二つだと整理されることが多い。
相対主義的思考とは、絶対的で文脈に依存しない「正解」が常にあるわけではなく、真理や評価は状況や視点によって変わりうる、という認識のことだ。
弁証法的思考とは、対立する二つの意見や矛盾する情報を、どちらか一方を切り捨てるのではなく、両方を踏まえた上でより高次の理解へと統合する思考のことを指す。
先ほどの例で言えば
1️⃣ポストフォーマル思考ができる人は次のように考える。
「高市さんのある政策は評価できる。しかし財政スタンスについては問題がある。これは矛盾ではなく、単に対象が複数の側面を持っているというだけのことだ」。
ここには「支持していたのに批判するのはおかしい」という発想そのものが存在しない。
なぜなら、支持と批判はそもそも同じ対象の異なる側面に向けられた、別々の評価だからだ。
2️⃣もう一つ重要な違いは、感情や文脈の扱い方だ。
形式的操作期の思考は、できるだけ感情や文脈を排除して純粋に論理的であろうとする傾向がある。
一方でポストフォーマル思考は、感情や文脈を判断材料の一つとして思考の中に統合する。
「この政策は理屈の上では正しいかもしれないが、この状況・このタイミングで実行することには問題がある」といった、状況込みの判断ができるようになる。
3️⃣さらに、意思決定の目的そのものも変わる。
形式的操作は「正しいもの」を求めようとする。しかしポストフォーマル思考は、「現実的で、その状況において最も適応的な判断」を求める。
政治的な評価で言えば、「この政治家は正しいか間違っているか」という白黒の問いではなく、「この政策は、この文脈において、どの程度妥当か」という、程度と文脈を伴った問いを立てられるようになる。
4️⃣そして何より、ポストフォーマル思考ができる人は、複数の論理的枠組みを状況に応じて切り替えられる。
「経済合理性で見ればこう、政治的な実現可能性で見ればこう、有権者の生活実感で見ればこう」——
同じ政策に対して、異なる評価軸を同時に持てるし、それらの間で矛盾があっても慌てない。
矛盾は解消すべき問題ではなく、複雑な現実を正確に映し取っている証拠だ、というくらいの余裕がある。

「支持したら全肯定しろ」という圧力に晒されたとき、多くの人がそれに屈してしまうか、あるいは黙って距離を置いてしまうのは、この余裕——矛盾を抱えたまま判断を保持する力——がまだ育っていないからだと言える。
なぜこのステージに到達する人としない人に分かれるのか
なぜ、同じように義務教育を受けてきたはずなのに、ポストフォーマル思考に到達する人としない人に分かれるのか。
決定的な一つの原因があるわけではなく、いくつかの要因が重なって差を生んでいると考えられる。

1️⃣認知的不協和を直視する習慣があったかどうか
自分が過去に下した評価と、今目にしている事実が食い違ったとき、その不快感を正面から受け止めて「自分の評価は一部間違っていたかもしれない」と考え直せるか。
それとも「いや、自分の評価は正しかったはずだ」と事実の側を歪めて処理してしまうか。
この分岐を繰り返し経験してきた人ほど、矛盾への耐性が育っていく。
逆に、不協和を感じるたびに事実や相手を切り捨てて処理してきた人は、その回避パターンが強化されていく
2️⃣意図的な訓練機会があったかどうか
学校教育の中では、社会科の「多面的・多角的に考察する」授業、国語科での批判的読解、データの妥当性を検討する理数系の活動など、複数の視点を取る訓練の種は蒔かれている。
しかし、これが実際に定着するかどうかは、家庭や学校外での反復に大きく左右される。
「この意見の良い点と悪い点を両方言ってみよう」という会話を日常的に交わしてきた人と、そうでない人とでは、大人になってからの到達度に差が出やすい。
3️⃣認知の節約が報われる環境にいたかどうか
これは見落とされがちだが、非常に重要な要因だ。
同調圧力の強い集団に長くいると、是々非々で考えること自体が「浮く」原因になる。
集団の中では、細かい是非を検討するより、「味方か敵か」で即断した方が、その場では歓迎されやすい。
SNSも同様の構造を持っている。
反応数やいいねという形で、単純化された強い主張の方が「正しさ」として認知されやすい。
こうした環境に長くいると、複雑な判断をする力があっても、それを使う機会そのものが与えられず、次第に使わなくなっていく。
はてブユーザーは、はてブ以外のSNSを殆ど使っていない人かはてブ以外だと相手にされない人が多く、そのためにどんどんおかしくなっていく

4️⃣失敗経験からのフィードバックがあったかどうか
「全部否定してしまったが、後から自分が間違っていたと気づいた」という経験を持つ人は
脳がそこから学習し、「この種の場面では、簡単に結論を出さない方がいい」という感覚を獲得していく。
逆に、単純な二分法で判断しても特に痛い目を見ずに済んできた人は、その判断様式を修正する機会を持たないまま歳を重ねていく。
(「ヨイコノミライ」の平松さんパターン。Mさんも同様の流れを踏んで今に至る)
5️⃣メタ認知の習慣があるかどうか
「今、自分は考えることを面倒くさがっているのではないか」と、自分の思考プロセスそのものを一歩引いて観察できるかどうかも大きい。
これは自己反省の習慣がある人ほど育ちやすく、逆に自分の判断を疑う機会がほとんどないまま生きてきた人には、そもそも育つ土台がない。
これらの要因は独立しているわけではなく、互いに絡み合っている。
たとえば同調圧力の強い環境にいる人は、そもそも複数の視点を試す機会自体を与えられにくく、その結果、認知的不協和を直視する経験も、失敗から学ぶ経験も積みにくい。
逆に、これらの条件がいくつも重なって揃った人は、比較的早い段階でポストフォーマル思考へと足を踏み入れていく。
つまり、ポストフォーマル思考に到達しているかどうかは、生まれ持った知能の高低というより
どれだけ「矛盾と向き合わされる経験」を積んできたかの差である場合が多い。
これは裏を返せば、大人になってからでも訓練によって変えられる余地がある、ということでもある。
積んでこなかった訓練を、今から積み直すには
ポストフォーマル思考は、才能ではなく、後からでも鍛えられる技術だ。
というわけで、ここからは「矛盾を統合する力」と「抽象化する力」を鍛えるための、具体的で実践しやすい方法を紹介する。
どれも言われてみれば当然という普通の方法ばかりである。