頭の上にミカンをのせる

もうマンガの感想だけでいい気がしてきた

「みいちゃんと山田さん」アニメ化論争は、本当に「社会の未成熟」の問題なのか?

一応書いておくと、みーまーは単行本6巻までは読んだうえで意見を述べています。


全然「それはそう」と思わないんだけど。

ぶっちゃけみいちゃんと山田さんが放送されてもネットの一部界隈でギャーギャー騒いでるだけで
テレビでは話題としてもそんなに取り上げられずに終わると思いますけどね。

であれば少なくとも成熟してないのは社会じゃなくて一部のアホだけでしょうというので終わりなのでこの話題はあまり興味がないです。

というかもうこの話8年くらい前に散々やったんだけどその頃から何も変わってない。

多分8年前に私も「その話まだやるの?」って思われてたんだろうな・・・恥

www.tyoshiki.com

というわけで、一応grokと会話した内容をブログ記事としてまとめてもらったので貼っておきます。







「みいちゃんと山田さん」アニメ化論争は、本当に「社会の未成熟」の問題なのか


このようなポストを見かけた。


正直、最初は何を言っているのかよくわからなかった。


読み進めていくと要するに「この作品の重いテーマは、アニメ化されて作品の複雑性を理解できないような一般層まで届いてしまうと、誤解や偏見を助長するのではないか」という懸念に対して、投稿者が「まあ、それはそうだよね」と頷いている、ということらしい。


ただ、この「社会が成熟していない」という言い回しに、どうしても引っかかった。


何かがおかしい。


いくつかの類似事例と照らし合わせながら言葉にしてみたい。


作品が背負わされている「重さ」

まず前提として、『みいちゃんと山田さん』がなぜこれほど「危うい」と言われるのかを整理しておく。

主人公のみいちゃんは、漢字が読めない、空気が読めない、判断力が極端に欠けているといった描写が積み重ねられ

軽度の知的障害や発達障害を強く連想させるキャラクターとして造形されている。

彼女は歌舞伎町の夜の街で働き、虐待やネグレクトの過去、性的搾取、DVを経て、物語の冒頭ですでに殺害されることが明かされている。

可愛らしい絵柄で累計280万部を売り上げる人気作でありながら、内容は相当に生々しい。


この作品がアニメ化されると、漫画を能動的に選んで読む層だけでなく

映像として偶然目にする一般層や海外視聴者にまで届いてしまう。

そうなったとき、「障害者は不幸を生む」「生まれてこない方がよかった」といった極端な解釈が
文脈を切り離されたまま広がってしまうのではないか——これが懸念派の骨子だ。

実際、現実でも「みいちゃん」という言葉が、発達に難のある女性を揶揄する蔑称として使われ始めているという報告もあるらしい。


ここまでは、懸念として筋が通っている。問題は、この先の飛躍にある。


最初の違和感

作品を眺めていて感じたのは、社会問題の要素を詰め込みすぎているのではないか、ということだった。

知的障害、夜職、性的搾取、近親相姦的な家庭環境、教育虐待、そして殺人。

一つ一つは現実にある問題だが、これだけの要素を一人のキャラクターに集約すると、逆にリアリティが薄れて「作り物」めいてしまう。

最初はドキュメンタリー的な生々しさを持っていたはずの題材が、後半になるにつれて社会問題のキメラのようになっていく。

そうなると、多くの読者は「これは現実そのものではなく、あくまでフィクションとして処理すべきもの」として受け取るのではないか、という感覚があった。

だとすれば、「アニメ化によって現実の障害者像が歪められる」という懸念は、思っているより過大なのではないか。

そんな疑問から、この話は始まっている。



「受け止める準備ができていない」を分解する

懸念派が言う「社会が成熟していない」を、もう少し丁寧に分解してみる。

彼らが求めているのは、作品を「一人のキャラクターの物語」として処理し、そこから障害者全体を一般化せず

娯楽として消費しながらも差別的な解釈に流れない読者・視聴者だ。

そして懸念派は、そういう「成熟した受け手」がまだ社会に十分育っていないと見ている。

特に、若いアニメ視聴者、福祉や障害に詳しくない一般層、SNSで表面的にしか情報を消費しない層は
作品を単純化し、悪意ある解釈に流用してしまうことを恐れている。

この構図に気づいたとき、一つの疑問が浮かんだ。



この懸念を語っている人たちは、自分自身のことそ無意識に「文脈を理解できる賢い人間側」だと思いたがっているのではないかと。


この懸念は本気で行っているわけじゃない。


社会を心配するふりをして「社会」というもの平均体なレベルを低く見ることで、自分を賢い人間に位置づけたいのではないかと。



それは賢い人間のやる行為ではなく、ごくごくありふれた人間のバイアスにすぎないのだが・・・。



これは第三者効果ではないか

心理学に「第三者効果」という概念がある。

メディアの悪影響について、「自分は大丈夫だが、他人は影響を受けるはずだ」と考えてしまう認知バイアスのことだ。

「みいちゃんと山田さん」をめぐる懸念の語られ方は、まさにこれに近い。


作品を熟読し、文脈を理解しているという自認のある層——つまり懸念を表明している当人たち——は
「自分はきちんと文脈を読める」と信じている。

一方で「一般大衆」「アニメを浅く消費する層」については、短絡的な偏見に流れるはずだと決めつけている。

これは、心配の形をしてはいるが、実質的には「自分たちは分かっているが、世間は分かっていない」という上から目線の裏返しでもある。

実際、SNSで声の大きい層ほどこの傾向が強い、という印象は否めない。


こういうのはなんの手がかりもない状態で一生懸命脳内だけで考えたところで時間の無駄なので、過去の事例と比較しながら考えてみた方が有意義な議論ができると思います

ただし、これを「ただのオタクの思い上がり」と切って捨てるのも、たぶん早計だ。


ここから先は、実際に起きた類似の事例を並べて、この懸念がどこまで妥当なのかを検証してみたい。



「幸せのワンルーム」や「聲の形」の時の騒動(F子氏などが暴れてた)など4件ほどを振り返ってみる。

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