前に書いた通りもう自分では意見書かないので他人の意見のメモだけ。
どうしてこれが累計200万部も売れるか分からないと主張する映画監督
(鬼滅の刃がヒットした理由ですら「まだわかる」という感じの方のようですが)
それら全部とちゃんと向き合うんだろうか。アニメにして勝算があるとは思えないけど、どうしてやろうと思ったのか。同業者として(実写の方だけど)、それが気になる。もし僕に脚本の仕事が来たら……断る、と思う。原作、大きく変えないと、このままじゃ使えないし。でも一番は最初の問いに戻るけど→
— 井上淳一 (@gomikari) 2026年8月3日
読まないことには始まらないと、『みいちゃんと山田さん』を読んだけど、アニメ化云々の前に、どうしてこれが累計200万部も売れるか分からない。
『鬼滅の刃』はまだ分かるんですよ。基本、ヒーローものだし、成長譚だし。でも、これはただ悲惨なだけ。みいちゃんがただただ酷い目に遭う。喜びもすぐに反転し、より悪い方に作用する。そんなみいちゃんには感情移入するのは難しいし、山田さんにも難しい。山田さん=世間の残酷さ、というか人間というものの残酷さをやろうとしているのかもしれないけど、作劇がそんなに上手いともおもえない。理解出来ない他者に対して、あるところまでは親切に出来ても、ある線を越えるとダメになるとか、別に目新しくもないし。
というか、これ、マンガだからなんとか耐えられるけど、アニメにしたらどうするんだろう? セックスもあるし、暴力もある。マンガだから血は黒いけど、アニメだと赤い血が飛ぶ。それら全部とちゃんと向き合うんだろうか。アニメにして勝算があるとは思えないけど、どうしてやろうと思ったのか。同業者として(実写の方だけど)、それが気になる。もし僕に脚本の仕事が来たら……断る、と思う。原作、大きく変えないと、このままじゃ使えないし。
でも一番は最初の問いに戻るけどどうして人気があるのか。人の不幸を見たい以外に理由がないような気がするんだけど。キャバやデリヘルといった知らない世界を覗きたいというのとも違う気がするし。こういう現実から目を逸らしちゃいけないなんて使命感でももちろんないだろうし。既刊6巻、僕は読み通すのが辛かった。例えて言うならどれだけ必然があろうと幼児虐待のシーンが見たくないみたいな。なんかイヤだな、こういうのが200万部売れる世界線って。アニメにするなら、ちゃんと作って欲しい。難しいと思うけど。うん、かなり難しい。 補足。みいちゃんの性は描くのに、どうして山田さんの性は描かないのか。山田さんの造形はすべて毒親である母との関係に集約されるけど、みいちゃんと対比させるなら、そこを描かないと釣り合いが取れないというか、ズルい気がした。描きやすい方だけ描くみたいな。
枝葉末節ではなく「構造」レベルで考えるということ
地雷魚氏の論考が「プラットフォームと出版市場の構造変化が表現者をいかに歪めているか」という生産・配信側の批評であるのに対し
ペトロニウスさんの論考は「生きづらい現代人がなぜその過酷な物語を欲し、救われているのか」という消費・受容側の精神史的批評となっています。
両記事を並べて読むことで
「バズ重視のSNS文化で露悪的・悲惨なマンガが増加している」という同一の現象に対して
「技術とシステムの淘汰圧による表現の衰退」と「社会構造の抑圧に対する精神的な不回避的アンチテーゼ」という
表裏一体の二大側面的視点を得ることができます。
ペトロニウスさんの記事は途中から有料記事なので、有料部分に書かれていること、つまり「ちいかわ」についての詳細な話は避けます。
「やっぱちいかわの話は避けて通れないよな」と思う人はペトロニウスさんの記事の有料部分読むと良いと思います(※)
両者の論考に共通する要素
① 共通する現状認識:社会の「漂白」と「露悪・欠陥表現」の隆盛
両者ともに、「完璧さや美しいものが受容されにくく、壊れた人間・社会の最底辺・露悪的な描写が猛烈に受容・拡散されている」という足元のトレンド認識を完全に共有しています。
また、LD教授が指摘する「露悪三銃士」(『ヤニねこ』『みいちゃんと山田さん』など)を具体例として挙げ、同一の言説空間を議論の前提に置いています。
対比点
①対比点A:何が作品を駆動させているのか(「Xの構造」vs「時代の抑圧」)
地雷魚氏(環境・供給側の構造):
「Xのアルゴリズム」という外部システムが主因。
怒りや論争(エンゲージメント)を評価する機械の仕様に最適化された結果、作家は「物議を醸す欠陥」を描くよう淘汰圧をかけられていると見ます。
ペトロニウス氏(内面・需要側の構造):
「新自由主義・自己責任教」という時代精神の抑圧が主因。
コンプラ等で綺麗に「漂白」された現実社会に溢れる「自己管理できない者への恐怖」に対し
フィクションがその不条理と不都合な現実を可視化することで需要を満たしていると捉えます。
② 対比点B:抽象化(ギャグ/かわいさ)と具象化(生身の人間)の捉え方
ペトロニウス氏は特に「具象と抽象の落差」に着目し、作品間の表現技法を細かく分類しています。
・具象的な露悪(『みいちゃんと山田さん』): 生身の弱者をむき出しに、なんなら誇張したり悪い部分だけ切り取って描くため、倫理的防衛反応や「ポルノ的消費」という炎上を引き起こす。
・快楽への逃避(『ヤニねこ』): 自堕落さのトリガーが「快楽(タバコ等)」にあるため、「自己責任」の余地が見えてしまい共感しづらい。
・高度な抽象化(『ちいかわ』): 「小さくてかわいい非人間」に抽象化しつつ、動機を「純粋な善意・脊髄反射」に置くことで、自責思考を完全に解体し、真の「どうしようもない地獄(=救い)」を描き出すことに成功している。
地雷魚氏がこれらを「Xのアルゴリズムに適合した一連の露悪・欠陥描写トレンド」として包括的に捉えているのに対し
ペトロニウス氏は表現の抽象度や動機付けの差異によって受容側の体験がまったく異なる点を深掘りしています。
③ 対比点C:価値判断(「文化の破壊」vs「現代の救い」)
地雷魚氏の結論:
目先のバズにとらわれて露悪的な描写ばかり評価されると、人間の脆い審美眼やクリエイターの美意識が根底から破壊されていく。
「出版社はXを評価基準にするのをやめるべきだ」と、市場・制度に対する警鐘で締めくくられます。
ペトロニウス氏の結論:
(有料部分なので省略)
結局のところ、「みい山」はシロクマさんが2022年ころからずっと主張してきた話のB面でしかないのではないか
「漂白された社会」に適応できている(あるいは適応しようと必死に耐えている)側からすれば
過剰で露悪的な表現はただの「不快なノイズ」や「倫理的な逸脱」に見えるかもしれません。
しかし、その社会の枠組みからはみ出さざるを得ない人や、自己責任論の重圧に押し潰されそうな人にとって
そうした作品が唯一の息抜きや救いとして機能しているという視点が必要になるかもしれません。

